2017年10月03日
トム・ペティが
01

トム・ペティが死んだ。
亡くなったと書くべきかもしれないけれど、
衝撃はあまりにも大きくて他の言葉が思い当たらない。
まさかこの日が来るなんて。
訃報記事。
****
米ロックミュージシャンのトム・ペティさん死去 66歳
家族が発表
【AFP=時事】
米ロックミュージシャンのトム・ペティ(Tom Petty)さんが
2日未明、心停止の状態に陥り、その後死去した。66歳。
数時間前には米国のメディアが未確認情報として
訃報記事を流していたが、遺族がペティさんの死を確認した。
家族は、「私たちの父、夫、きょうだい、リーダー、
そして仲間であるトム・ペティの早過ぎる死を報告するに
当たって打ちのめされています」との声明を発表した。
ペティさんは2日未明、米カリフォルニア州マリブの自宅で
心停止の状態に陥った。
声明によると、ペティさんはすぐにロサンゼルスの病院に
搬送されたものの蘇生することがかなわず、
同日午前8時40分に家族やバンドのメンバー、友人らに
囲まれて安らかに息を引き取った」という。
****
今朝トムが危篤であると聞いた瞬間頭に流れてきた曲。
☆
Only A Broken Heart
Tom Petty
(1994)
ほんとうにこの曲が最初に浮かんだのですが、
ほんとうにそれが今の僕の気持ちを表している。
大好きなアーティストが亡くなると、
その人の音楽をたくさん聴く、聴きたくなる。
でも、僕は、トムの死を知り、トムの音楽を、声を、
聴きたくもなかった。
受け入れられないから。
しかし帰宅してやっぱり聴きたい気持ちに抗えなくなった。
最初は、結果として「遺作」ということになるのか、
トム生前最後のスタジオ録音アルバムである
マッドクラッチのMUDCRUTCH 2を聴きました。
☆
Dreams Of Flying
Mudcrutch
(2016)
早すぎる、もう飛んで行ってしまったなんて・・・
続いてトム・ペティ&ザ・ハートブレカーズ名義による
生前最後のアルバムを聴きました。
ビルボードNo.1に輝いた彼ら唯一の作品。
☆
Fault Lines
Tom Petty & The Heartbreakers
(2014)
このCDを手に取った時最初に思い浮かんで口ずさんだ曲。
訃報に接して2曲目に頭に浮かんできたのは、明るいこの曲。
☆
Feel A Whole Lot Better
Tom Petty
(1989)
トム・ペティ最初のソロアルバムにして80年代の名盤。
ザ・バーズの曲のまさに最高のカバー。
口ずさむには歌メロがあまりにも素晴らしすぎる。
その次に浮かんだのはこれでした。
☆
It Ain't Nothing To Me
Tom Petty & The Heartbreakers
(1985)
なぜだろう、自分でもこれが浮かんだのは不思議。
ディスコっぽいファンクっぽいソウルっぽい。
こういうのもできる人だったんだなあってあらためて。
そこからはもう次々とトムの曲が頭の中に、仕事中でしたが。
その中の1曲は、「死」を扱ったビデオクリップでした。
☆
Mary Jane's Last Dance
Tom Petty & The Heartbreakers
(1993)
キム・ベイシンガーが出演するこのビデオクリップは
当時話題になりました。
最後に、僕がトム・ペティと出会った曲を残しておかなければ。
☆
You Got Lucky
Tom Petty & The Heartbreakers
(1982)
中学3年の秋、NHK-FMでエアチェックした曲。
気持ちが動かされましたが、レコードは買わなかった。
まだ僕には早いと思ったのかな。
ついにコンサートに行くことができなかった。
日本でも、アメリカでも。
ありがとう、トム・ペティ、そしてさようなら

トム・ペティが死んだ。
亡くなったと書くべきかもしれないけれど、
衝撃はあまりにも大きくて他の言葉が思い当たらない。
まさかこの日が来るなんて。
訃報記事。
****
米ロックミュージシャンのトム・ペティさん死去 66歳
家族が発表
【AFP=時事】
米ロックミュージシャンのトム・ペティ(Tom Petty)さんが
2日未明、心停止の状態に陥り、その後死去した。66歳。
数時間前には米国のメディアが未確認情報として
訃報記事を流していたが、遺族がペティさんの死を確認した。
家族は、「私たちの父、夫、きょうだい、リーダー、
そして仲間であるトム・ペティの早過ぎる死を報告するに
当たって打ちのめされています」との声明を発表した。
ペティさんは2日未明、米カリフォルニア州マリブの自宅で
心停止の状態に陥った。
声明によると、ペティさんはすぐにロサンゼルスの病院に
搬送されたものの蘇生することがかなわず、
同日午前8時40分に家族やバンドのメンバー、友人らに
囲まれて安らかに息を引き取った」という。
****
今朝トムが危篤であると聞いた瞬間頭に流れてきた曲。
☆
Only A Broken Heart
Tom Petty
(1994)
ほんとうにこの曲が最初に浮かんだのですが、
ほんとうにそれが今の僕の気持ちを表している。
大好きなアーティストが亡くなると、
その人の音楽をたくさん聴く、聴きたくなる。
でも、僕は、トムの死を知り、トムの音楽を、声を、
聴きたくもなかった。
受け入れられないから。
しかし帰宅してやっぱり聴きたい気持ちに抗えなくなった。
最初は、結果として「遺作」ということになるのか、
トム生前最後のスタジオ録音アルバムである
マッドクラッチのMUDCRUTCH 2を聴きました。
☆
Dreams Of Flying
Mudcrutch
(2016)
早すぎる、もう飛んで行ってしまったなんて・・・
続いてトム・ペティ&ザ・ハートブレカーズ名義による
生前最後のアルバムを聴きました。
ビルボードNo.1に輝いた彼ら唯一の作品。
☆
Fault Lines
Tom Petty & The Heartbreakers
(2014)
このCDを手に取った時最初に思い浮かんで口ずさんだ曲。
訃報に接して2曲目に頭に浮かんできたのは、明るいこの曲。
☆
Feel A Whole Lot Better
Tom Petty
(1989)
トム・ペティ最初のソロアルバムにして80年代の名盤。
ザ・バーズの曲のまさに最高のカバー。
口ずさむには歌メロがあまりにも素晴らしすぎる。
その次に浮かんだのはこれでした。
☆
It Ain't Nothing To Me
Tom Petty & The Heartbreakers
(1985)
なぜだろう、自分でもこれが浮かんだのは不思議。
ディスコっぽいファンクっぽいソウルっぽい。
こういうのもできる人だったんだなあってあらためて。
そこからはもう次々とトムの曲が頭の中に、仕事中でしたが。
その中の1曲は、「死」を扱ったビデオクリップでした。
☆
Mary Jane's Last Dance
Tom Petty & The Heartbreakers
(1993)
キム・ベイシンガーが出演するこのビデオクリップは
当時話題になりました。
最後に、僕がトム・ペティと出会った曲を残しておかなければ。
☆
You Got Lucky
Tom Petty & The Heartbreakers
(1982)
中学3年の秋、NHK-FMでエアチェックした曲。
気持ちが動かされましたが、レコードは買わなかった。
まだ僕には早いと思ったのかな。
ついにコンサートに行くことができなかった。
日本でも、アメリカでも。
ありがとう、トム・ペティ、そしてさようなら
2017年05月18日
クリス・コーネルが急に
01

サウンドガーデンのフロントマン、ギターとヴォーカル、
クリス・コーネルが急死したとの報に接しました。
享年52。
スポニチアネックスの記事を引用します。
なお、引用者は適宜表記変更や改行を施しています。
***
米歌手クリス・コーネル氏死去 52歳
サウンドガーデンのボーカルなど
ロックバンド「サウンドガーデン」「オーディオスレイヴ」
のボーカルとして知られた米歌手の
・コーネル氏が17日、デトロイトで死去した。
死因は不明。52歳。米メディアが報じた。
コーネル氏は17日、4月から米ツアー中の
「サウンドガーデン」とデトロイトで演奏していた。
訃報について、代理人は「突然かつ予期しない」と話している。
4オクターブの声域を持ち、バンド解散後はソロ活動。
2006年には映画「007 カジノ・ロワイヤル」の主題歌
You Know My Nameを歌った。
ニルヴァーナのカート・コバーンも絶賛したバンド
「サウンドガーデン」は1995年に
「ブラック・ホール・サン」のPVがグラミー賞ビデオ部門に輝いた。
***
ツアー先での急死。
死因ははっきりしない(非公表)とのことですが、
クスリではなく心臓発作とかであればショックが大きいです。
サウンドガーデンを僕が知ったのは、
1994年のアルバムSUPERUNKNOWN。
ちょうど僕のMTV「全盛期」、家に帰ると寝るまでずっと
ケーブルテレビのMTVを観て聴いていた頃にヒットしたもの。
これは最初から気に入り、その後もしばしば聴き続けていて、
90年代の好きなアルバム10枚を選べといわれると
少なくとも最終候補に残る僕の愛聴盤であります。
アルバムについてはいつかまた記事にするとして、今回は
レッド・ツェッペリン的サウンドをグランジの世の中に甦らせ、
僕が1発でノックアウトされたファーストシングル。
そうなんです。
グランジ全盛期、「この人たちもどうせグランジだろ」と
思っていたところ、響いてきたのはツェッペリンだったのです。
☆
Spoonman
Soundgarden
(1994)
以前独立した記事にしましたが、そうですね、
今日も聴き直してやっぱりこの曲は素晴らしい。
ほんとうは違いますが、6弦だけ1音下げてDにすると弾けるのは、
レッド・ツェッペリンのMoby Dickと同じ。
自分で弾いてそれが分かりサウンドガーデンが大好きになりました。
SUPERUNKNOWNは異様なまでに素晴らしかったのですが、
遡って聴いたその前のBADMOTORFINGERと、
期待が大きかったその次のDOWN ON THE UPSIDE、
いずれも大きな期待が大きく空回りしてしまい、
僕の中でサウンドガーデンは終わりました。
実際、クリス・コーネルは1997年に脱退、
バンドは解散状態になったのですが。
期待外れだった2枚はしかしいつかまた聴き直してみると
いいと思うかもしれないとずっと思ってきました。
それがこんなかたちでまた聴こうと思うとは・・・
でも、サウンドガーデンにはもう1曲、大のお気に入りがあります。
☆
New Damage
Soundgarden & Brian May
(1994)
元々BADMOTORFINGERに入っていた曲ですが、
1994年のGREEPEACEのチャリティアルバムにおいて
ブライアン・メイがゲスト参加し再録音したもの。
ちなみにこのアルバムにはR.E.M.のDriveの
まったく違うヴァージョンも入っていたのがよかった。
さて、サウンドガーデンを脱退したクリスは、
ヴォーカルが抜けたレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンと
合体するというかたちでオーディオスレイヴを結成。
グランジ寄りのハードロックを聴かせてくれました。
(ハードロック寄りのグランジ、ではないと僕は思っている)。
☆
Cochise
Audioslave
(2001)
このアルバムは当時結構聴いたのですが、
その後聴いていなかったので、これもうろ覚えでした。
だから取り上げるかどうか迷ったのですが、
ここ外すわけにはゆかないので。
さて、クリス・コーネルの「サイドビジネス」シリーズ。
先ずはこれ。
☆
Ave Maria
Chris Cornell
(1997)
クリスマスアルバムの名コンピレーションシリーズ、
A VERY SPECIAL CHRISTMAS 3に収録。
ちょうどサウンドガーデンをやめた頃ですね。
これを聴いて当時、えっ、この人「ちゃんと」歌える人なんだ
と少々驚いた記憶があります。
そうなんです。
申し訳ない、グランジから出てきた人という固定概念があって、
ただがなる人であり、歌が上手い人だなんて思ってもいなかった。
歌が上手いから、こんなこともやりました。
☆
You Know My Name
Chris Cornell
(2006)
『007カジノ・ロワイヤル』のテーマ曲。
現ジェイムス・ボンド役ダニエル・クレイグのデビュー作。
緊迫感のある彼の声が007には合ってますね。
そうなんです、てまた言ってますが(笑)、
「クリス・コーネルって誰?」という方も今回は
結構いらっしゃるかもしれない。
でも、かの007のテーマを歌うほど認められた人なのです。
僕が驚いたのは、この頃クリス・コーネルは
「歌が上手い人」という認識が広がっていたことです。
グランジから出てきた人がそこまで来たか、と、
なぜか親心のように喜んだ記憶がありますね(笑)。
そしてクリス・コーネルで驚いたのがこのカヴァー。
☆
Billie Jean
Chris Cornell
(2007)
あれですよ、マイケル・ジャクソンの。
曲想をまったく変えているので、一聴すると分からないですよね。
聴いていてあれ、あれれもしかしてこの曲は? となるのでは。
ここまで自分のものにするともはや芸ですね。
そしてマイケル・ジャクソンが大好きだったことが分かり、
彼の歌の上手さはハードロックだけにとらわれない
音楽的貪欲さから成り立っていたものだと分かりました。
しかし、オーディオスレイヴも4枚のソロアルバムも
熱心に聴いていたわけではなかった。
サウンドガーデンは2012年に再結成アルバムKING ANIMAL
をリリースしましたが、ごめんなさい、僕はその頃はもう
あまり興味がなく、弟が買ったのを1度聴いたきりでした。
まあそんなだからファンとは言い切れないですが、しかし、
SUPERUNKNOWNの存在があまりにも大きくて、
やっぱり今日この記事を上げないわけにはゆかないと。
記事の最後、やっぱりこの曲は外せない。
☆
Black Hole Sun
Soundgarden
(1994)
僕が好きな1990年代の楽曲間違いなくTop10に入ります。
この曲を聴きながら今回はこの辺で。
クリス・コーネル
R.I.P.
02


サウンドガーデンのフロントマン、ギターとヴォーカル、
クリス・コーネルが急死したとの報に接しました。
享年52。
スポニチアネックスの記事を引用します。
なお、引用者は適宜表記変更や改行を施しています。
***
米歌手クリス・コーネル氏死去 52歳
サウンドガーデンのボーカルなど
ロックバンド「サウンドガーデン」「オーディオスレイヴ」
のボーカルとして知られた米歌手の
・コーネル氏が17日、デトロイトで死去した。
死因は不明。52歳。米メディアが報じた。
コーネル氏は17日、4月から米ツアー中の
「サウンドガーデン」とデトロイトで演奏していた。
訃報について、代理人は「突然かつ予期しない」と話している。
4オクターブの声域を持ち、バンド解散後はソロ活動。
2006年には映画「007 カジノ・ロワイヤル」の主題歌
You Know My Nameを歌った。
ニルヴァーナのカート・コバーンも絶賛したバンド
「サウンドガーデン」は1995年に
「ブラック・ホール・サン」のPVがグラミー賞ビデオ部門に輝いた。
***
ツアー先での急死。
死因ははっきりしない(非公表)とのことですが、
クスリではなく心臓発作とかであればショックが大きいです。
サウンドガーデンを僕が知ったのは、
1994年のアルバムSUPERUNKNOWN。
ちょうど僕のMTV「全盛期」、家に帰ると寝るまでずっと
ケーブルテレビのMTVを観て聴いていた頃にヒットしたもの。
これは最初から気に入り、その後もしばしば聴き続けていて、
90年代の好きなアルバム10枚を選べといわれると
少なくとも最終候補に残る僕の愛聴盤であります。
アルバムについてはいつかまた記事にするとして、今回は
レッド・ツェッペリン的サウンドをグランジの世の中に甦らせ、
僕が1発でノックアウトされたファーストシングル。
そうなんです。
グランジ全盛期、「この人たちもどうせグランジだろ」と
思っていたところ、響いてきたのはツェッペリンだったのです。
☆
Spoonman
Soundgarden
(1994)
以前独立した記事にしましたが、そうですね、
今日も聴き直してやっぱりこの曲は素晴らしい。
ほんとうは違いますが、6弦だけ1音下げてDにすると弾けるのは、
レッド・ツェッペリンのMoby Dickと同じ。
自分で弾いてそれが分かりサウンドガーデンが大好きになりました。
SUPERUNKNOWNは異様なまでに素晴らしかったのですが、
遡って聴いたその前のBADMOTORFINGERと、
期待が大きかったその次のDOWN ON THE UPSIDE、
いずれも大きな期待が大きく空回りしてしまい、
僕の中でサウンドガーデンは終わりました。
実際、クリス・コーネルは1997年に脱退、
バンドは解散状態になったのですが。
期待外れだった2枚はしかしいつかまた聴き直してみると
いいと思うかもしれないとずっと思ってきました。
それがこんなかたちでまた聴こうと思うとは・・・
でも、サウンドガーデンにはもう1曲、大のお気に入りがあります。
☆
New Damage
Soundgarden & Brian May
(1994)
元々BADMOTORFINGERに入っていた曲ですが、
1994年のGREEPEACEのチャリティアルバムにおいて
ブライアン・メイがゲスト参加し再録音したもの。
ちなみにこのアルバムにはR.E.M.のDriveの
まったく違うヴァージョンも入っていたのがよかった。
さて、サウンドガーデンを脱退したクリスは、
ヴォーカルが抜けたレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンと
合体するというかたちでオーディオスレイヴを結成。
グランジ寄りのハードロックを聴かせてくれました。
(ハードロック寄りのグランジ、ではないと僕は思っている)。
☆
Cochise
Audioslave
(2001)
このアルバムは当時結構聴いたのですが、
その後聴いていなかったので、これもうろ覚えでした。
だから取り上げるかどうか迷ったのですが、
ここ外すわけにはゆかないので。
さて、クリス・コーネルの「サイドビジネス」シリーズ。
先ずはこれ。
☆
Ave Maria
Chris Cornell
(1997)
クリスマスアルバムの名コンピレーションシリーズ、
A VERY SPECIAL CHRISTMAS 3に収録。
ちょうどサウンドガーデンをやめた頃ですね。
これを聴いて当時、えっ、この人「ちゃんと」歌える人なんだ
と少々驚いた記憶があります。
そうなんです。
申し訳ない、グランジから出てきた人という固定概念があって、
ただがなる人であり、歌が上手い人だなんて思ってもいなかった。
歌が上手いから、こんなこともやりました。
☆
You Know My Name
Chris Cornell
(2006)
『007カジノ・ロワイヤル』のテーマ曲。
現ジェイムス・ボンド役ダニエル・クレイグのデビュー作。
緊迫感のある彼の声が007には合ってますね。
そうなんです、てまた言ってますが(笑)、
「クリス・コーネルって誰?」という方も今回は
結構いらっしゃるかもしれない。
でも、かの007のテーマを歌うほど認められた人なのです。
僕が驚いたのは、この頃クリス・コーネルは
「歌が上手い人」という認識が広がっていたことです。
グランジから出てきた人がそこまで来たか、と、
なぜか親心のように喜んだ記憶がありますね(笑)。
そしてクリス・コーネルで驚いたのがこのカヴァー。
☆
Billie Jean
Chris Cornell
(2007)
あれですよ、マイケル・ジャクソンの。
曲想をまったく変えているので、一聴すると分からないですよね。
聴いていてあれ、あれれもしかしてこの曲は? となるのでは。
ここまで自分のものにするともはや芸ですね。
そしてマイケル・ジャクソンが大好きだったことが分かり、
彼の歌の上手さはハードロックだけにとらわれない
音楽的貪欲さから成り立っていたものだと分かりました。
しかし、オーディオスレイヴも4枚のソロアルバムも
熱心に聴いていたわけではなかった。
サウンドガーデンは2012年に再結成アルバムKING ANIMAL
をリリースしましたが、ごめんなさい、僕はその頃はもう
あまり興味がなく、弟が買ったのを1度聴いたきりでした。
まあそんなだからファンとは言い切れないですが、しかし、
SUPERUNKNOWNの存在があまりにも大きくて、
やっぱり今日この記事を上げないわけにはゆかないと。
記事の最後、やっぱりこの曲は外せない。
☆
Black Hole Sun
Soundgarden
(1994)
僕が好きな1990年代の楽曲間違いなくTop10に入ります。
この曲を聴きながら今回はこの辺で。
クリス・コーネル
R.I.P.
02

2017年03月19日
チャック・ベリー氏
01

今朝の仕事前に
チャック・ベリーが亡くなったという報に接しました。
BARKSの記事を引用します。
***
ロックンロールの創始者の1人、チャック・ベリーが土曜日(3月18日)、
ミズーリ州セントチャールズの自宅で亡くなった。
90歳だった。
地元の警察によると、
意識がないとの通報により12時40分に駆け付け、
救命措置を施したが、回復することはなく、
13時26分に死亡が確認されたという。
1926年にミズーリで誕生したベリーは、
20代初めで結婚し子供が誕生。
家族を養うため工場などで働くと同時に、
臨時収入を得るため、地元のバンドで
ブルースやR&Bをプレイし始めた。
1955年、シカゴを訪れた際、
マディ・ウォーターズから勧められ、チェス・レコードと契約。
後にロックンロール最初の曲の1つと呼ばれるようになる
Maybelleneをレコーディングし、ヒットさせ、
翌年、あのRoll Over Beethovenが誕生した。
その後、School Day (Ring! Ring! Goes the Bell)、
Rock And Roll Music、Sweet Little Sixteen、
Johnny B. Goodeなど、
ロック史上最も重要な曲をいくつも世に送り出した。
ベリーのサウンドとスタイルは、ザ・ビートルズ、
ザ・ローリング・ストーンズ、ビーチ・ボーイズ、
ジミ・ヘンドリックスら多くのミュージシャン―
―この世の全てのロックンローラーと言ってもいいだろう―
―に影響を与え、ジョン・レノンはかつて、
「ロックンロールに別の名前を付けるとしたら、“チャック・ベリー”だ」
と表した。
合掌。
***
もちろん残念だし寂しいし時代が終わったとの感慨はあるけれど、
90歳という年齢を考えると、まあ、ショック、ではないかな。
むしろ90歳まで生きられたことに感心するくらい。
冷たい言い方に聞こえたら申し訳ないですが、
90歳でショックを受けていたら人間やっていられない、と。
90歳まで生きてみたいですしね。
(それとてもう人生の折り返し地点は通過しているのですが)。
チャック・ベリー。
細かい話をするときりがないので、今回は(も、ですが)、
あくまでも僕の思い出と絡めて話させていただきます。
やっぱりね、ビートルズバカが出発点なので、
チャック・ベリーは最初から別次元の人でしたね。
引用文にもあるように、ジョン・レノンの本などを読むと
必ずといっていいほどチャック・ベリーが出てきましたからね。
ジョン・レノンを通してチャック・ベリーの名前を知った時、
僕は、エルヴィス・プレスリーじゃないんだと意外でした。
エルヴィスより偉い人がこの世界にいたんだ、と知りました。
(偉い、というのは違うかもしれないですが)。
でも、チャック・ベリー自身の音楽を聴いたのはかなり遅く、
もう大学生でCDの時代になってからでした。
もちろんというか、高校時代にラジオで数曲聴きましたが
どの曲だったかは覚えていない。
でも、聴いた時、正直、拍子抜けしたことは覚えています。
はい、申し訳ない。
やっぱりビートルズ以前の音楽だから演奏が薄いというか、
音が軽かったのがあまりなじめなかったのだと記憶しています。
しかも当時ビートルズでも音がハードな曲の方が
どうやら俺は好きみたいだぞと思い始めた頃だったので、
それだったらビートルズやジョン・レノンのカヴァーの新しい音で
聴く方がいいと、いかにも(当時)現代っ子らしいことを思い、
すぐにレコードを買うには至りませんでした。
でもやっぱりルーツは聴いておきたい。
CDの時代になり、LPサイズの箱に入ったCDボックスセットが
流行り、写真01のChessの音源を集めた4枚組を買いました。
そこで初めて真面目にチャック・ベリーを聴いたのですが、
やっぱり軽いと。
しかも、当時は(生意気にも)なんとなく黒人音楽や
ブルーズっぽいというのを感じられるようになった頃だったので、
チャック・ベリーの「黒っぽくなさ」が意外でもありました。
まあリズムの部分ではやっぱり黒人らしさはあるのでしょうけれど、
全体の印象としては敢えて黒っぽくなくしていると感じました。
だから広く受け入れられたのかもしれないですが、でも、
80年代はソウルやR&Bが「死んだ」と言われていた頃で、
その中にいたまだまだ音楽をよく知らない(今もですが)僕が、
そういう考えに流れるのは仕方なかったのかもしれない、と。
チャック・ベリーといえば1980年代のパルコのCMを
思い出す方も多いのではないでしょうか。
その時初めて動くチャック・ベリーを観たという人も多いでしょう。
そう、CMでダックウォークしていましたね。
You-Tubeで探しましたが見当たりませんでした。
パルコはジェイムス・ブラウンのCMもありましたが、
昔はCMが面白かったですね、鼻につくのもあったけれど。
その後1990年代に来日公演がありましたが、
行けばよかったと今でも思っているコンサートのひとつです。
つまり僕は生のチャック・ベリーはついぞ見ることがなかった。
02

アルバムDOZEN BERRYSの紙ジャケットCD。
今はもうないさいたまの「ジョン・レノン・ミュージアム」、
展示入口のブースにこのLPがあり、欲しくなって探すと
紙ジャケットCDが出ていたので買いました。
だからこれは、チャック・ベリーというよりは、
ジョン・レノンの想い出に結びついたアルバムですね。
ところで余談、このアルバムのBERRYSというのは
僕の打ち間違いではなくジャケットにそう記されています。
PCで打つとスペルミスを示す赤い波下線が出てきます(笑)。
ロックでスペルを1つかそれ以上変えるという伝統は
もうチャック・ベリーから始まっていたのですね。
チャック・ベリーの半生を、ローリング・ストーンズの
キース・リチャーズのプロデュースにより綴った映画
『ヘイル! ヘイル! ロックンロール』
数年前にDVDで観ました。
キース・リチャーズがとにかく一緒に仕事をやりにくい人であり、
なんども切れたとのこと。
お金にうるさい人という話は聞いていましたが、
映画でもその様子が描かれているのは
キースの心が透けて見えるようで興味深い。
チャック・ベリー自身の話もエピソードも面白いし
キースを含めたライヴシーンもよかったですが、
僕がいちばん印象に残ったのは最後のシーン。
チャック・ベリーが広いスタジオにひとり残って、
キーボード弾きながらロックンロールとはまるで違う
バッハのような重たい曲を演奏するというもの。
それまでの(金まみれの)人生を顧みているのか、
ほんとうは違うことをやりたかったことの表れか、
ロックンロールの将来を案じているのか、
はたまた自らの老い先を憂いているのか。
あまりにも意味深、これだけ意味深で示唆的なラストシーンは
音楽に限らず他の映画でもあまりなかったというくらい。
別に予感したとかそういうことはないただの偶然ですが、
つい最近、また観てみようかなと思いました。
03

THE GREAT TWENTY-EIGHT
Chuck Berry
チェス時代の28曲を1枚にまとめた好編集のベスト盤。
車に積んでいて時々聴きたくなってかけています。
このCDは実は2枚目です。
ちょっと汚い話で特にお食事中の方申し訳ないですが、
かつて家にいたキャバリアのアイーダという犬を連れて
支笏湖畔の美笛キャンプ場に行った時のこと。
キャンプサイトには夕方集合、アイーダを助手席に乗せ
午後3時前に出発。
道中バディ・ホリーとチャック・ベリーのベスト盤のCDを
聴くことにしましたが、キャンプ場まであと少しというところで
アイーダの様子がおかしい。
どうやら大を我慢していたようで、キャンプ場に着く前に
助手席でもらしてしまいました。
その時車内にはチャック・ベリーの歌声が。
助手席にはスーパーマップルとチャック・ベリーのCDのケースが
置いてあり、それが黄色く汚れてしまった。
CDケースは普通ダッシュボードに置いておくのですが、
その時はその瞬間聴いていなかったバディ・ホリーなどで
ダッシュボードが埋まっていてそれは助手席に置いたのでした。
ディスクは無事だったけどやっぱり買い直したというわけですが、
このCDを見ると、その時のことを思い出してしまいますね。
チャック・ベリーとファンの方には失礼かもしれない話ですが。
さて、やっぱりこの曲を聴かないと始まらないし終わらない。
☆
Johnny B. Goode
Chuck Berry
この曲も"Be Good"のスペルを一部変えていますよね。
You-Tubeになんと、チャック・ベリーとジョン・レノンが
共演したこの曲もありました。
☆
Johnny B. Goode
Chuck Berry & John Lennon
テレビ番組のライヴでしょう。
この共演の経緯を想像すると、
ビートルズのCome Togetherが
チャック・ベリーのYou Can't Catch Meの
盗作ではないかと問題になり、裁判の結果、
チャック・ベリーの曲の著作権を持つ音楽出版社の曲を
ジョン・レノンが録音して正式にリリースすることになり、
まずWALLS AND BRIDGESでYa-Yaを演奏した。
その流れと仲直りの意味があったのかなと。
まああくまでも想像ですが。
(そもそも仲直りする気があったのかな・・・)
チャック・ベリーは昨秋、二十何年振りに
新しいアルバムを作ったと報じられており、
どんな音なのだろうと楽しみにしていました。
それが最近はアナウンスもニュースもなかったので、
どうしたのだろうと思っていました。
本人が嫌がったのかな。
完成しているのであれば、やっぱり聴きたいし
リリースされることを願っています。
チャック・ベリー。
僕はCDをよく聴くし大好きですが、ミュージシャンではないし、
直接的に大きな影響を受けたというわけではない。
しかし、間接的影響は計り知れないものがある。
それがなければ音楽は聴けない、というくらいに。
太く長く、そんな人生だったのかもしれない。
R.I.P.
04

今朝の3ショット。
チャック・ベリーには暗いのは似合わないかな、と。

今朝の仕事前に
チャック・ベリーが亡くなったという報に接しました。
BARKSの記事を引用します。
***
ロックンロールの創始者の1人、チャック・ベリーが土曜日(3月18日)、
ミズーリ州セントチャールズの自宅で亡くなった。
90歳だった。
地元の警察によると、
意識がないとの通報により12時40分に駆け付け、
救命措置を施したが、回復することはなく、
13時26分に死亡が確認されたという。
1926年にミズーリで誕生したベリーは、
20代初めで結婚し子供が誕生。
家族を養うため工場などで働くと同時に、
臨時収入を得るため、地元のバンドで
ブルースやR&Bをプレイし始めた。
1955年、シカゴを訪れた際、
マディ・ウォーターズから勧められ、チェス・レコードと契約。
後にロックンロール最初の曲の1つと呼ばれるようになる
Maybelleneをレコーディングし、ヒットさせ、
翌年、あのRoll Over Beethovenが誕生した。
その後、School Day (Ring! Ring! Goes the Bell)、
Rock And Roll Music、Sweet Little Sixteen、
Johnny B. Goodeなど、
ロック史上最も重要な曲をいくつも世に送り出した。
ベリーのサウンドとスタイルは、ザ・ビートルズ、
ザ・ローリング・ストーンズ、ビーチ・ボーイズ、
ジミ・ヘンドリックスら多くのミュージシャン―
―この世の全てのロックンローラーと言ってもいいだろう―
―に影響を与え、ジョン・レノンはかつて、
「ロックンロールに別の名前を付けるとしたら、“チャック・ベリー”だ」
と表した。
合掌。
***
もちろん残念だし寂しいし時代が終わったとの感慨はあるけれど、
90歳という年齢を考えると、まあ、ショック、ではないかな。
むしろ90歳まで生きられたことに感心するくらい。
冷たい言い方に聞こえたら申し訳ないですが、
90歳でショックを受けていたら人間やっていられない、と。
90歳まで生きてみたいですしね。
(それとてもう人生の折り返し地点は通過しているのですが)。
チャック・ベリー。
細かい話をするときりがないので、今回は(も、ですが)、
あくまでも僕の思い出と絡めて話させていただきます。
やっぱりね、ビートルズバカが出発点なので、
チャック・ベリーは最初から別次元の人でしたね。
引用文にもあるように、ジョン・レノンの本などを読むと
必ずといっていいほどチャック・ベリーが出てきましたからね。
ジョン・レノンを通してチャック・ベリーの名前を知った時、
僕は、エルヴィス・プレスリーじゃないんだと意外でした。
エルヴィスより偉い人がこの世界にいたんだ、と知りました。
(偉い、というのは違うかもしれないですが)。
でも、チャック・ベリー自身の音楽を聴いたのはかなり遅く、
もう大学生でCDの時代になってからでした。
もちろんというか、高校時代にラジオで数曲聴きましたが
どの曲だったかは覚えていない。
でも、聴いた時、正直、拍子抜けしたことは覚えています。
はい、申し訳ない。
やっぱりビートルズ以前の音楽だから演奏が薄いというか、
音が軽かったのがあまりなじめなかったのだと記憶しています。
しかも当時ビートルズでも音がハードな曲の方が
どうやら俺は好きみたいだぞと思い始めた頃だったので、
それだったらビートルズやジョン・レノンのカヴァーの新しい音で
聴く方がいいと、いかにも(当時)現代っ子らしいことを思い、
すぐにレコードを買うには至りませんでした。
でもやっぱりルーツは聴いておきたい。
CDの時代になり、LPサイズの箱に入ったCDボックスセットが
流行り、写真01のChessの音源を集めた4枚組を買いました。
そこで初めて真面目にチャック・ベリーを聴いたのですが、
やっぱり軽いと。
しかも、当時は(生意気にも)なんとなく黒人音楽や
ブルーズっぽいというのを感じられるようになった頃だったので、
チャック・ベリーの「黒っぽくなさ」が意外でもありました。
まあリズムの部分ではやっぱり黒人らしさはあるのでしょうけれど、
全体の印象としては敢えて黒っぽくなくしていると感じました。
だから広く受け入れられたのかもしれないですが、でも、
80年代はソウルやR&Bが「死んだ」と言われていた頃で、
その中にいたまだまだ音楽をよく知らない(今もですが)僕が、
そういう考えに流れるのは仕方なかったのかもしれない、と。
チャック・ベリーといえば1980年代のパルコのCMを
思い出す方も多いのではないでしょうか。
その時初めて動くチャック・ベリーを観たという人も多いでしょう。
そう、CMでダックウォークしていましたね。
You-Tubeで探しましたが見当たりませんでした。
パルコはジェイムス・ブラウンのCMもありましたが、
昔はCMが面白かったですね、鼻につくのもあったけれど。
その後1990年代に来日公演がありましたが、
行けばよかったと今でも思っているコンサートのひとつです。
つまり僕は生のチャック・ベリーはついぞ見ることがなかった。
02

アルバムDOZEN BERRYSの紙ジャケットCD。
今はもうないさいたまの「ジョン・レノン・ミュージアム」、
展示入口のブースにこのLPがあり、欲しくなって探すと
紙ジャケットCDが出ていたので買いました。
だからこれは、チャック・ベリーというよりは、
ジョン・レノンの想い出に結びついたアルバムですね。
ところで余談、このアルバムのBERRYSというのは
僕の打ち間違いではなくジャケットにそう記されています。
PCで打つとスペルミスを示す赤い波下線が出てきます(笑)。
ロックでスペルを1つかそれ以上変えるという伝統は
もうチャック・ベリーから始まっていたのですね。
チャック・ベリーの半生を、ローリング・ストーンズの
キース・リチャーズのプロデュースにより綴った映画
『ヘイル! ヘイル! ロックンロール』
数年前にDVDで観ました。
キース・リチャーズがとにかく一緒に仕事をやりにくい人であり、
なんども切れたとのこと。
お金にうるさい人という話は聞いていましたが、
映画でもその様子が描かれているのは
キースの心が透けて見えるようで興味深い。
チャック・ベリー自身の話もエピソードも面白いし
キースを含めたライヴシーンもよかったですが、
僕がいちばん印象に残ったのは最後のシーン。
チャック・ベリーが広いスタジオにひとり残って、
キーボード弾きながらロックンロールとはまるで違う
バッハのような重たい曲を演奏するというもの。
それまでの(金まみれの)人生を顧みているのか、
ほんとうは違うことをやりたかったことの表れか、
ロックンロールの将来を案じているのか、
はたまた自らの老い先を憂いているのか。
あまりにも意味深、これだけ意味深で示唆的なラストシーンは
音楽に限らず他の映画でもあまりなかったというくらい。
別に予感したとかそういうことはないただの偶然ですが、
つい最近、また観てみようかなと思いました。
03

THE GREAT TWENTY-EIGHT
Chuck Berry
チェス時代の28曲を1枚にまとめた好編集のベスト盤。
車に積んでいて時々聴きたくなってかけています。
このCDは実は2枚目です。
ちょっと汚い話で特にお食事中の方申し訳ないですが、
かつて家にいたキャバリアのアイーダという犬を連れて
支笏湖畔の美笛キャンプ場に行った時のこと。
キャンプサイトには夕方集合、アイーダを助手席に乗せ
午後3時前に出発。
道中バディ・ホリーとチャック・ベリーのベスト盤のCDを
聴くことにしましたが、キャンプ場まであと少しというところで
アイーダの様子がおかしい。
どうやら大を我慢していたようで、キャンプ場に着く前に
助手席でもらしてしまいました。
その時車内にはチャック・ベリーの歌声が。
助手席にはスーパーマップルとチャック・ベリーのCDのケースが
置いてあり、それが黄色く汚れてしまった。
CDケースは普通ダッシュボードに置いておくのですが、
その時はその瞬間聴いていなかったバディ・ホリーなどで
ダッシュボードが埋まっていてそれは助手席に置いたのでした。
ディスクは無事だったけどやっぱり買い直したというわけですが、
このCDを見ると、その時のことを思い出してしまいますね。
チャック・ベリーとファンの方には失礼かもしれない話ですが。
さて、やっぱりこの曲を聴かないと始まらないし終わらない。
☆
Johnny B. Goode
Chuck Berry
この曲も"Be Good"のスペルを一部変えていますよね。
You-Tubeになんと、チャック・ベリーとジョン・レノンが
共演したこの曲もありました。
☆
Johnny B. Goode
Chuck Berry & John Lennon
テレビ番組のライヴでしょう。
この共演の経緯を想像すると、
ビートルズのCome Togetherが
チャック・ベリーのYou Can't Catch Meの
盗作ではないかと問題になり、裁判の結果、
チャック・ベリーの曲の著作権を持つ音楽出版社の曲を
ジョン・レノンが録音して正式にリリースすることになり、
まずWALLS AND BRIDGESでYa-Yaを演奏した。
その流れと仲直りの意味があったのかなと。
まああくまでも想像ですが。
(そもそも仲直りする気があったのかな・・・)
チャック・ベリーは昨秋、二十何年振りに
新しいアルバムを作ったと報じられており、
どんな音なのだろうと楽しみにしていました。
それが最近はアナウンスもニュースもなかったので、
どうしたのだろうと思っていました。
本人が嫌がったのかな。
完成しているのであれば、やっぱり聴きたいし
リリースされることを願っています。
チャック・ベリー。
僕はCDをよく聴くし大好きですが、ミュージシャンではないし、
直接的に大きな影響を受けたというわけではない。
しかし、間接的影響は計り知れないものがある。
それがなければ音楽は聴けない、というくらいに。
太く長く、そんな人生だったのかもしれない。
R.I.P.
04

今朝の3ショット。
チャック・ベリーには暗いのは似合わないかな、と。
2017年02月01日
ジョン・ウェットンの死を悼む
01

エイジアのヴォーカリストでありベーシストそしてソングライターの
ジョン・ウェットンが亡くなったとの報に接しました。
先ずはスポーツ報知の記事を引用します。
なお、引用者は適宜表記変更や改行などを施しています。
***
1970年代を代表する
プログレッシブ・ロックバンド「キングクリムゾン」や、
80年代に活躍したロックグループ「エイジア」の
ジョン・ウェットンさんが31日、67歳で亡くなった。
「エイジア」の公式ツイッターが同日、
「今朝、ジョン・ウェットンが眠りについたことをお知らせします」
と発表した。
ウェットンさんはがんの治療を受けるため、
活動を一時休止していた。
「エイジア」は元イエスのスティーブ・ハウとジェフ・ダウンズ、
元エマーソン・レイク&パーマーのカール・パーマーと
ウェットンさんの4人で結成され、82年にデビュー。
ウェットンさんはボーカルとベースを務めた。
メンバー全員がスーパーグループでのキャリアを持っていたため、
デビュー当初から注目を集め、ファーストアルバム
「詠時感~時へのロマン」は全米チャートで1位に輝いた。
2ndアルバムからシングルカットされた「ドント・クライ」は
80年代を代表するヒット曲になった
ジェフ・ダウンズは自身のツイッターで
「悲しい一日だ」とつぶやいている。
***
続いてBARKSからの記事を2本。
最初の方は前半が重なるので途中からです。
***
ウェットンは3週間ほど前、癌の治療に専念するため、
3~4月に北米で開催するジャーニーとのジョイント・ツアーに
参加できないと発表したばかりだった。
そのときは、
「当然のこと、エイジアの歴史的ツアーになるのが
わかっているものの始まりを逃すのは残念だが、
年内にはエイジアと共にステージに戻るつもりだ。
長い目で見れば、この決断が自分の健康にとっても
ファンにとっても1番ためになることはわかっている」
と、復帰を誓っていた。
マネージャーからの話として、結腸癌を患っていたと伝えている。
合掌。
***
***
ジョン・ウェットンが亡くなり、エイジアのバンド・メイト、
カール・パーマーとジェフ・ダウンズが追悼の言葉を寄せた
カール・パーマーは、
「僕のいい友人で音楽のコラボレーター、
ジョン・ウェットンが亡くなり、
世界はまたもや音楽の巨人を失った」
と、Twitterを通じ、その死を偲んだ。
「ジョンは穏やかな人で、モダン・ポピュラー・ミュージックで
最も永続的なメロディと歌詞のいくつかを生み出した」
「ミュージシャンとして、彼は勇敢さと革新的なところ
両方を備えていた。
そして、あの声でエイジアの音楽を
世界中のチャートのトップに君臨させた」
「彼の才能、ユーモアのセンス、
あの感染する笑顔がないなんて寂しくなる。
気をつけて行けよ、僕の旧友」
ジェフ・ダウンズは、ウェットンを
「親愛なる友人、ブラザー、バンド・メイト、長年のコラボレーター」
と呼び、
「彼は、世界で最高級の音楽の才能を持つ一人として、
人々の記憶に残るだろう。
僕は、多くの人々と同じように、彼の影響の恩恵を受けた。
長年に渡り、この天才と多くのプロジェクトを一緒にできたのは、
とてつもなく光栄だ。
彼のベース・プレイは革新的だった。
彼の声は神からの贈り物だった。
彼の作曲は――この世のものとは思えなかった。
彼のメロディとハーモニーのセンスは―
―信じられないほど素晴らしかった。
彼は文字通り、“特別”だった」
と、その才能を称えた。
ウェットンは3週間前、癌の治療に専念するため、
しばらくツアーから離脱すると発表し、
ファンから多くのお見舞いの言葉が寄せられていた。
まさか、これほど早くお別れの日が来るとは思われていなかった。
***
昨秋にはグレッグ・レイクも亡くなりましたが、
カール・パーマーはエマーソン・レイク&パーマーにエイジアと
バンド仲間が立て続けに2人、つらいでしょうね。
◇
ジョン・ウェットンと僕との出会いは御多分に漏れずというか、
エイジアでした。
☆
Heat Of The Moment
Asia
1982
当時はビートルズ以外の洋楽を聴き始めたばかりであり、
ビルボードのヒットチャートやビデオクリップを意識し始めた頃、
エイジアの曲、サウンド、アートワークそしてこの映像、
中学生の僕には強烈でした。
デビューアルバムASIAはNo.1に輝いたばかりか、
アルバム年間チャートでも1位ですからね。
僕もその年の終わりくらいにLP買いました。
洋楽で買ったLP最初の10枚には入るでしょう。
(いつものようにビートルズとそのメンバー以外で)。
余談ですが、エイジアの次にビルボードアルバムチャートで
1位になったのがポール・マッカートニーのTUG OF WARで、
その辺のことは「FMファン」で追っていましたが、
ビートルズを聴き始めて最初に出たメンバーのソロアルバムが
1位になったことで嬉しかった。
エイジアは、ポールが蹴落としたということで、
より強く僕の中に刻まれることになったのでした。
エイジアの功績といえばプログレを短くして売れたことでしょうか。
イエスのOwner Of A Lonely Heartが1位になったのだって、
エイジアがあってことだと思うし。
まあ筋金入りのプログレファンには眉唾物かもだけど、
それが同時代だったのだから、やっぱり僕には功績と映ります。
曲は短いけれど要素はしっかりとプログレだから。
また、キーボード=シンセサイザーのサウンドが時代の主流に
躍り出たことにうまく乗れたのもエイジアだったのでしょう。
ビデオクリップ。
そう、これはゴドレー&クレームのものですが、MTV時代になり
ビデオクリップが注目され、エイジアはそこにもうまく乗りました。
音楽業界で10年以上やって来た4人、何かを掴んだのでしょう。
でもこのビデオクリップ、ユーモアというか可笑しいというか、
ジョン・ウェットンの靴に僕は当時大爆笑したものでした。
Heat Of The Momentはスティーヴ・ハウのギターを
耳コピーして演奏しました。
特にサビというかBメロのアルペジオが弾いていて気持ちいい。
ジョン・ウェットンの声は英雄的響きがありながらも
どこかウェットな部分があって(ちょっと駄洒落入れてみました)、
温かみを感じますね。
声も最初から好きになりました。
エイジアの2作目に行く前に少し逸れます。
エイジアがヒットして、その後に出たジョージ・ハリスンの
アルバムGONE TROPPOとそこからの1stシングル
Wake Up My Loveは、トトやエイジア風のキーボード、
と当時言われたものでしたが、それほどまでに影響力大だった。
☆
Wake Up My Love
George Harrison
(1982)
ううん、このイントロは確かに。
ジョージも当時はやる気がなくなっていたそうで、
まあひとつお仕事でやってみるか、みたいな感じかな。
ただこの曲は好きですけどね、アルバムも最高にいい。
なんて、どうしてもビートルズをねじ込みたいのでした(笑)。
閑話休題。
続いて2作目ALPHAから
☆
Don't Cry
Asia
1983
これがね、国内盤LPを予約して買いました。
ロジャー・ディーンのジャケットがきれいで、クラスメートが
貸してほしいというので学校に持って行くのが楽しくて。
朝のクラスルームで展覧会のように眺めて話していました。
しかし、2作目が出た後すぐにスティーヴ・ハウが脱退。
ショックでした、それ以来LP聴かなくなったというくらいに。
(厳密にはLPを録音したカセットテープを、ですが)。
この曲もヒットしましたが、でも、報知の記事を書いた記者さんは
きっと若いのでしょう、リアルタイムで聴いていた者としては、
Don't Cryが「80年代を代表するヒット曲」とはあまり思わない。
それはエイジア自身としてもシーンとしても。
でも、今はそういう伝わり方をしているのかと思うと
興味深い記述ではありますね。
まあそれはともかくもちろんこの曲もいい、大好き。
映画風のビデオクリップはいかにも80年代ですね。
それがお嫌いな方が結構いらっしゃるのも頷けますが。
エイジアは3作目ASTRAから聴かなくなりました。
それが出た時、学校にLPを持ってきていたクラスメートが
いましたが、僕はもう冷めてしまっていました。
それでも当時この曲は結構好き、やっぱりいいと思ったので、
流れとしては入れておきます。
☆
Go
Asia
(1985)
ギターはマンディ・メイヤー、後のカトマンドゥの人ですね。
というか90年代にカトマンドゥのCDを買って聴いてから、
それがエイジア2代目のギタリストだと知ったのですが。
それからジョン・ウェットンは僕の中では
「エイジアの人」になりました、良くも悪くも。
時代を経て僕はキング・クリムゾンも聴くようになりました。
流れとしては遡っていますが、その中でもREDが好き。
そこで歌ってベースを弾いているのがジョン・ウェットン。
☆
Starless
King Crimson
ジョン・ウェットンがいるキング・クリムゾンでは
このアルバムがいちばん好きだし、最後のこの曲で
とどめを刺すといった感じ。
この寂寥感、しかもざらついたハードな手触り。
このアルバムがヘヴィメタルだという人がいらっしゃいますが、
そうですね、言い得て妙、気持ちは分かります。
10年ほど前まではエイジアやクリムゾンは時々聴くくらいで、
それでもエイジアは度々むしょうに聴きたくなっていて、
LP買った2枚では足りないので当時聴かなかった3作目も
聴くようになっていました(それなり以上にいいですね)。
そして2008年。
エイジアはオリジナルメンバーで新しくなった。
☆
An Extraordinary Life
Asia
(2008)
この曲は最初から感動しました。
雑誌か何かで(多分B!誌だと思う)このアルバムや曲についての
ジョン・ウェットンのインタビューを読んだのですが、
心臓手術を行い、生きていることへの感謝の念が強くなった。
その象徴がこの曲だという話でした。
「驚きに満ちた人生」
この曲を聴いてからジョン・ウェットンが人間的に尊敬できる
好きな人になり、爾来、常に彼の健康問題を
気にかけるようにもなりました。
今回は伊藤正則がテレビ番組で、ジョン・ウェットンが全米ツアーに
参加できないと話していたのを聞いて、その影響かと思いましたが、
死の知らせはあまりにも突然だった。
癌で闘病中だったのか。
昨年から特に昔からよく知っている多くのミュージシャンの訃報に
接してきていますが、今回のジョン・ウェットンは、僕の中では
それとは少し違うと感じています。
ミュージシャンよりも人間としての部分で強く打たれた。
僕だってもう体に気をつけなければいけない年齢だし。
そしてジョン・ウェットンは歌を通して生きることの素晴らしさを
語ってくれた、純粋に素晴らしいことだと思う。
ほんとうにあまりにも急なことに残念でならない。
もっと生きてほしかった。
この曲が入った2008年のアルバムPHOENIXは
いい意味での「クサさ」満開で日本人好み。
9年前に記事にしていたので、ご興味がある方は
こちらのリンクから記事をご覧ください。
ここからのエイジアは音楽として素晴らしい作品を作り上げた。
80年代にちょっと人気があった過去のバンドと思っておられる方、
このPHOENIXとその後のOMEGA、XXX、GRAVITASは
ぜひ聴いてほしいです。
僕も今日はPHOENIXとOMEGAを続けて聴きましたが、前者の
3曲目に"This is no time to die"という歌詞があることに気づき、
やはりジョン・ウェットンは生きることの素晴らしさを
身を持って理解したのだと、感動をあらたにしました。
ジョン・ウェットン
安らかにお眠りください。
02


エイジアのヴォーカリストでありベーシストそしてソングライターの
ジョン・ウェットンが亡くなったとの報に接しました。
先ずはスポーツ報知の記事を引用します。
なお、引用者は適宜表記変更や改行などを施しています。
***
1970年代を代表する
プログレッシブ・ロックバンド「キングクリムゾン」や、
80年代に活躍したロックグループ「エイジア」の
ジョン・ウェットンさんが31日、67歳で亡くなった。
「エイジア」の公式ツイッターが同日、
「今朝、ジョン・ウェットンが眠りについたことをお知らせします」
と発表した。
ウェットンさんはがんの治療を受けるため、
活動を一時休止していた。
「エイジア」は元イエスのスティーブ・ハウとジェフ・ダウンズ、
元エマーソン・レイク&パーマーのカール・パーマーと
ウェットンさんの4人で結成され、82年にデビュー。
ウェットンさんはボーカルとベースを務めた。
メンバー全員がスーパーグループでのキャリアを持っていたため、
デビュー当初から注目を集め、ファーストアルバム
「詠時感~時へのロマン」は全米チャートで1位に輝いた。
2ndアルバムからシングルカットされた「ドント・クライ」は
80年代を代表するヒット曲になった
ジェフ・ダウンズは自身のツイッターで
「悲しい一日だ」とつぶやいている。
***
続いてBARKSからの記事を2本。
最初の方は前半が重なるので途中からです。
***
ウェットンは3週間ほど前、癌の治療に専念するため、
3~4月に北米で開催するジャーニーとのジョイント・ツアーに
参加できないと発表したばかりだった。
そのときは、
「当然のこと、エイジアの歴史的ツアーになるのが
わかっているものの始まりを逃すのは残念だが、
年内にはエイジアと共にステージに戻るつもりだ。
長い目で見れば、この決断が自分の健康にとっても
ファンにとっても1番ためになることはわかっている」
と、復帰を誓っていた。
マネージャーからの話として、結腸癌を患っていたと伝えている。
合掌。
***
***
ジョン・ウェットンが亡くなり、エイジアのバンド・メイト、
カール・パーマーとジェフ・ダウンズが追悼の言葉を寄せた
カール・パーマーは、
「僕のいい友人で音楽のコラボレーター、
ジョン・ウェットンが亡くなり、
世界はまたもや音楽の巨人を失った」
と、Twitterを通じ、その死を偲んだ。
「ジョンは穏やかな人で、モダン・ポピュラー・ミュージックで
最も永続的なメロディと歌詞のいくつかを生み出した」
「ミュージシャンとして、彼は勇敢さと革新的なところ
両方を備えていた。
そして、あの声でエイジアの音楽を
世界中のチャートのトップに君臨させた」
「彼の才能、ユーモアのセンス、
あの感染する笑顔がないなんて寂しくなる。
気をつけて行けよ、僕の旧友」
ジェフ・ダウンズは、ウェットンを
「親愛なる友人、ブラザー、バンド・メイト、長年のコラボレーター」
と呼び、
「彼は、世界で最高級の音楽の才能を持つ一人として、
人々の記憶に残るだろう。
僕は、多くの人々と同じように、彼の影響の恩恵を受けた。
長年に渡り、この天才と多くのプロジェクトを一緒にできたのは、
とてつもなく光栄だ。
彼のベース・プレイは革新的だった。
彼の声は神からの贈り物だった。
彼の作曲は――この世のものとは思えなかった。
彼のメロディとハーモニーのセンスは―
―信じられないほど素晴らしかった。
彼は文字通り、“特別”だった」
と、その才能を称えた。
ウェットンは3週間前、癌の治療に専念するため、
しばらくツアーから離脱すると発表し、
ファンから多くのお見舞いの言葉が寄せられていた。
まさか、これほど早くお別れの日が来るとは思われていなかった。
***
昨秋にはグレッグ・レイクも亡くなりましたが、
カール・パーマーはエマーソン・レイク&パーマーにエイジアと
バンド仲間が立て続けに2人、つらいでしょうね。
◇
ジョン・ウェットンと僕との出会いは御多分に漏れずというか、
エイジアでした。
☆
Heat Of The Moment
Asia
1982
当時はビートルズ以外の洋楽を聴き始めたばかりであり、
ビルボードのヒットチャートやビデオクリップを意識し始めた頃、
エイジアの曲、サウンド、アートワークそしてこの映像、
中学生の僕には強烈でした。
デビューアルバムASIAはNo.1に輝いたばかりか、
アルバム年間チャートでも1位ですからね。
僕もその年の終わりくらいにLP買いました。
洋楽で買ったLP最初の10枚には入るでしょう。
(いつものようにビートルズとそのメンバー以外で)。
余談ですが、エイジアの次にビルボードアルバムチャートで
1位になったのがポール・マッカートニーのTUG OF WARで、
その辺のことは「FMファン」で追っていましたが、
ビートルズを聴き始めて最初に出たメンバーのソロアルバムが
1位になったことで嬉しかった。
エイジアは、ポールが蹴落としたということで、
より強く僕の中に刻まれることになったのでした。
エイジアの功績といえばプログレを短くして売れたことでしょうか。
イエスのOwner Of A Lonely Heartが1位になったのだって、
エイジアがあってことだと思うし。
まあ筋金入りのプログレファンには眉唾物かもだけど、
それが同時代だったのだから、やっぱり僕には功績と映ります。
曲は短いけれど要素はしっかりとプログレだから。
また、キーボード=シンセサイザーのサウンドが時代の主流に
躍り出たことにうまく乗れたのもエイジアだったのでしょう。
ビデオクリップ。
そう、これはゴドレー&クレームのものですが、MTV時代になり
ビデオクリップが注目され、エイジアはそこにもうまく乗りました。
音楽業界で10年以上やって来た4人、何かを掴んだのでしょう。
でもこのビデオクリップ、ユーモアというか可笑しいというか、
ジョン・ウェットンの靴に僕は当時大爆笑したものでした。
Heat Of The Momentはスティーヴ・ハウのギターを
耳コピーして演奏しました。
特にサビというかBメロのアルペジオが弾いていて気持ちいい。
ジョン・ウェットンの声は英雄的響きがありながらも
どこかウェットな部分があって(ちょっと駄洒落入れてみました)、
温かみを感じますね。
声も最初から好きになりました。
エイジアの2作目に行く前に少し逸れます。
エイジアがヒットして、その後に出たジョージ・ハリスンの
アルバムGONE TROPPOとそこからの1stシングル
Wake Up My Loveは、トトやエイジア風のキーボード、
と当時言われたものでしたが、それほどまでに影響力大だった。
☆
Wake Up My Love
George Harrison
(1982)
ううん、このイントロは確かに。
ジョージも当時はやる気がなくなっていたそうで、
まあひとつお仕事でやってみるか、みたいな感じかな。
ただこの曲は好きですけどね、アルバムも最高にいい。
なんて、どうしてもビートルズをねじ込みたいのでした(笑)。
閑話休題。
続いて2作目ALPHAから
☆
Don't Cry
Asia
1983
これがね、国内盤LPを予約して買いました。
ロジャー・ディーンのジャケットがきれいで、クラスメートが
貸してほしいというので学校に持って行くのが楽しくて。
朝のクラスルームで展覧会のように眺めて話していました。
しかし、2作目が出た後すぐにスティーヴ・ハウが脱退。
ショックでした、それ以来LP聴かなくなったというくらいに。
(厳密にはLPを録音したカセットテープを、ですが)。
この曲もヒットしましたが、でも、報知の記事を書いた記者さんは
きっと若いのでしょう、リアルタイムで聴いていた者としては、
Don't Cryが「80年代を代表するヒット曲」とはあまり思わない。
それはエイジア自身としてもシーンとしても。
でも、今はそういう伝わり方をしているのかと思うと
興味深い記述ではありますね。
まあそれはともかくもちろんこの曲もいい、大好き。
映画風のビデオクリップはいかにも80年代ですね。
それがお嫌いな方が結構いらっしゃるのも頷けますが。
エイジアは3作目ASTRAから聴かなくなりました。
それが出た時、学校にLPを持ってきていたクラスメートが
いましたが、僕はもう冷めてしまっていました。
それでも当時この曲は結構好き、やっぱりいいと思ったので、
流れとしては入れておきます。
☆
Go
Asia
(1985)
ギターはマンディ・メイヤー、後のカトマンドゥの人ですね。
というか90年代にカトマンドゥのCDを買って聴いてから、
それがエイジア2代目のギタリストだと知ったのですが。
それからジョン・ウェットンは僕の中では
「エイジアの人」になりました、良くも悪くも。
時代を経て僕はキング・クリムゾンも聴くようになりました。
流れとしては遡っていますが、その中でもREDが好き。
そこで歌ってベースを弾いているのがジョン・ウェットン。
☆
Starless
King Crimson
ジョン・ウェットンがいるキング・クリムゾンでは
このアルバムがいちばん好きだし、最後のこの曲で
とどめを刺すといった感じ。
この寂寥感、しかもざらついたハードな手触り。
このアルバムがヘヴィメタルだという人がいらっしゃいますが、
そうですね、言い得て妙、気持ちは分かります。
10年ほど前まではエイジアやクリムゾンは時々聴くくらいで、
それでもエイジアは度々むしょうに聴きたくなっていて、
LP買った2枚では足りないので当時聴かなかった3作目も
聴くようになっていました(それなり以上にいいですね)。
そして2008年。
エイジアはオリジナルメンバーで新しくなった。
☆
An Extraordinary Life
Asia
(2008)
この曲は最初から感動しました。
雑誌か何かで(多分B!誌だと思う)このアルバムや曲についての
ジョン・ウェットンのインタビューを読んだのですが、
心臓手術を行い、生きていることへの感謝の念が強くなった。
その象徴がこの曲だという話でした。
「驚きに満ちた人生」
この曲を聴いてからジョン・ウェットンが人間的に尊敬できる
好きな人になり、爾来、常に彼の健康問題を
気にかけるようにもなりました。
今回は伊藤正則がテレビ番組で、ジョン・ウェットンが全米ツアーに
参加できないと話していたのを聞いて、その影響かと思いましたが、
死の知らせはあまりにも突然だった。
癌で闘病中だったのか。
昨年から特に昔からよく知っている多くのミュージシャンの訃報に
接してきていますが、今回のジョン・ウェットンは、僕の中では
それとは少し違うと感じています。
ミュージシャンよりも人間としての部分で強く打たれた。
僕だってもう体に気をつけなければいけない年齢だし。
そしてジョン・ウェットンは歌を通して生きることの素晴らしさを
語ってくれた、純粋に素晴らしいことだと思う。
ほんとうにあまりにも急なことに残念でならない。
もっと生きてほしかった。
この曲が入った2008年のアルバムPHOENIXは
いい意味での「クサさ」満開で日本人好み。
9年前に記事にしていたので、ご興味がある方は
こちらのリンクから記事をご覧ください。
ここからのエイジアは音楽として素晴らしい作品を作り上げた。
80年代にちょっと人気があった過去のバンドと思っておられる方、
このPHOENIXとその後のOMEGA、XXX、GRAVITASは
ぜひ聴いてほしいです。
僕も今日はPHOENIXとOMEGAを続けて聴きましたが、前者の
3曲目に"This is no time to die"という歌詞があることに気づき、
やはりジョン・ウェットンは生きることの素晴らしさを
身を持って理解したのだと、感動をあらたにしました。
ジョン・ウェットン
安らかにお眠りください。
02

2016年12月26日
今日はこの話題をしないわけには・・・ジョージ・マイケルを悼む
01

年の瀬も押し詰まり、またミュージシャンの訃報が。
ご存知の方も多いかと思う、ジョージ・マイケルが亡くなりました。
享年53。
先ずはロイターの訃報記事を。
なお、引用者は適宜改行や表記変更を施しています。
***
元「ワム!」の英歌手ジョージ・マイケルさん死去、53歳
12月25日、英歌手ジョージ・マイケルさんが死去した。
53歳だった。
BBCが25日、同氏の代理人の話として報じた。
マイケルさんの広報担当者が
「私たちの愛すべき息子、兄弟、そして友人であるジョージが、
このクリスマスの期間に自宅で亡くなったことは大きな悲しみだ。
族はこの困難な時にあってプライバシーを
尊重してほしいと望んでいる。
現時点でこれ以上のコメントはない」
と発表した。
英警察は、マイケルさんの死について
「原因の説明は不可能だが、不審な点はない」としている。
1963年にロンドンでギリシャ系移民の両親の下に生まれた
マイケルさんは、1981年に「ワム!」を結成し
「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」、「ケアレス・ウィスパー」、
「ラスト・クリスマス」などの大ヒットを飛ばした。
ソロアーティストに転向した後も「アイ・ウォント・ユア・セックス」
「 フェイス」などのヒット曲を放ち活躍した。
***
続いてスポニチから関係記事。
***
「最愛の友失った」
エルトン・ジョンら音楽界からマイケル氏追悼の声
英人気歌手のジョージ・マイケル氏が25日、
53歳の若さで死去。
1981年にポップデュオ「ワム!」でデビューし、
ソロとしても数々のヒットを記録したアーティストの急死に、
音楽界からは驚きと追悼の声が続々と寄せられている。
91年にDon't Let The Sun GO Down On Meでデュエットし、
プライベートでも友人だったエルトン・ジョン(69)は
自身のインスタグラムにマイケル氏との2ショット画像を投稿。
「強いショックを受けている。
最愛の友で、最も優しく、
寛大な心を持つ素晴らしいアーティストを失った」
とつづり、マイケル氏の遺族と友人、ファンにお悔やみを述べている。
また、92年に行われたフレディ・マーキュリー氏(享年45)の
追悼コンサートで名曲「愛にすべてを」をコラボするなど
縁の深かった「クイーン」のギタリスト、ブライアン・メイ(69)は
自身のツイッターに追悼メッセージ。
「ジョージ? ジョージ・マイケル?
No…そんなはずない。悲しすぎる」
と取り乱した様子でつぶやいた後、
「言葉がない。ジョージよ、安らかに」と悼んだ。
同じ80年代にデビューしたマドンナ(58)はインスタグラムで
「さようなら、マイフレンド!
また偉大なアーティストがこの世を去った。
2016年、さっさと消え失せてくれない?」
と追悼。
デビッド・ボウイさん、プリンスさんら
大物アーティストの相次ぐ訃報を悲しんだ。
***
正直、ジョージ・マイケルは強い思い入れがある
というほどではありません。
でも、1980年代に洋楽を聴き始めた人間である以上、
彼の音楽に普通に接し、いい歌は好きになっていました。
僕がジョージ・マイケルとワム!を知ったのは、
やはりというかテレビのMTV番組でした。
ただ、クラスでワム!が好きという人が何人か(も)いたのに
僕は知らなくて、或る日テレビで観て「ああこれか」と。
僕は出遅れたくちでした。
なんせ、ワム!を知った直後にもうあの
「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ!」がリリースされたのだから。
☆
Wake Me Up Before You Go-Go
Wham!
ごめんなさい。
僕はそれまでワム!を小ばかにしていました。
この曲もワム!の新曲がかかるというのでテレビが
はしゃぐように大きく取り上げられていたのを、
鼻で笑っていました。
しかし。
曲を聴いて一発で気持ちが540度変わりました。
素晴らしい。
いい歌だ、あまりにも。
へそ曲がりの僕はしかし、すぐにそれを認めたくはなかった。
寝るまでの間、この曲をいいと言って認めてしまっていいのかと
つまらんことで自問自答していました。
翌朝の高校、クラスルームの音楽談義。
この曲で盛り上がりましたね。
ジョージ・マイケル男が見てもかわいいとか、
蛍光色の手袋だけが写るシーンが恐いとか、
何よりいい歌だったよねって。
僕はしばらく「うんうん」と生返事をするだけでしたが、
そうか、ここで僕が「よかった」と言うとみんな驚くかなと思い、
「確かにいい曲ではあったな」というようなことを言いました。
誰も驚かなかった。
自意識過剰でした(笑)。
いい歌だと思うのが当たり前という雰囲気でした。
この曲はほんとうに好きですよ。
当時よりむしろ今の方が好き。
というのも、数年前から僕はソウルを真面目に聴き始めましたが、
この曲はモータウンですよね。
僕はモータウン大好き人間ですが、当時はそこが結びつかなくて、
ただただロックにしては軽い曲としか映らなかったのでしょう。
今の方が好き、そうなった確かなきっかけがひとつあります。
2009年のことだ(なぜか覚えている)、1月だったと思う、
早朝に千歳に鳥を見に行った時にカーステレオが故障し、
CDが再生できなくなりました。
仕方がないのでラジオをつけたところ、この曲が流れてきました。
それは洋楽番組ではない普通の情報番組でしたが、
そんな中で洋楽が聴ける、それだけで嬉しかった。
その時、この曲がこんなにまでいい曲だったなんて、と。
その瞬間は音楽に飢えていたからでしょうかね。
僕がこの曲をよく口ずさむようになったのはそれからのことです。
話は80年代に戻ります。
続いてあのCareless Whisperがシングルカット。
僕はクラスルームでこう言いました。
「こんな歌謡曲みたいな歌がアメリカで売れるはずがない」
この曲は見事ビルボードNo.1に輝きました。
はい、僕は英国勢が苦手でした(笑)。
と同時に、アメリカのヒットチャートの奥深さも知りましたね。
この曲がヒットしたことで僕もついにLP MAKE IT BIG
をタワーレコードで買いました。
タワレコのはUS盤で他の人が買ったのとは
ジャケットが違うのが密かな自慢でした。
ワム!といえばLast Christmasの話もしなければならない。
といってこの話はクリスマスCDのところでしたばかりですが、
時系列がどうだったか思い出せなかったので
ウィキペディアで調べると、MAKE IT BIGがまだまだ
ヒットしていた頃だったんだ、そうだったか。
これの次のシングルがFreedomでした。
次の話は曲から先に行きます。
☆
Everything She Wants
Wham!
Freedomの次のシングル。
でもFreedomより売れてビルボードNo.1に輝いた曲。
でもそれはリミックスだったのではないかな。
86年、僕は浪人生で車の免許を取り、
家の車で外出するようになりました。
当時はまだレコードを買ってカセットテープに録って
カーステレオで聴いていましたが、それも新鮮な体験でした。
輸入ドーナツ盤をよく買っていたのでそれを適当にテープに
録っていた中に、ワム!のEverything She Wantsがありました。
7月の或る日、土用丑の日ということで、近くにいた祖母に
うなぎ屋さんまで乗せて行ってと言われて行くことに。
従弟も一緒に来ました、確かまだ小学生だった。
カーステレオからEverything She Wantsがかかった時、
従弟が途中のハミングの部分を口ずさみはじめました。
この歌知ってるのと聞くと知らないという。
そういう人でも口ずさんでしまうのはいい曲なんだよなと。
うなぎ屋に着くまで、いやそこから家に帰るまで何度も何度も
繰り返しかけて口ずさんでいました。
MAKE IT BIGの波が終わるとなぜかワム!はスロウダウン。
シングルA Different Cornerがヒットし、中途半端なベスト盤
FINALが出てワム!は解散。
その後1987年に出たジョージ・マイケルのFAITH。
世の中の期待をこれほどまでにしっかりと受け止めて、
大きく世の中に還したアルバムってそうはないでしょ。
ほんとうにすごい人だと思ったものです。
渋谷陽一氏が主に書き1988年に新潮文庫から出た
『ロック・ベスト・アルバム・セレクション』でも、
出たばかりなのにもう取り上げられていたくらい。
FAITHについてはまたいつかまとめて話すとして、
今回はシングルB面曲を1曲だけ。
2ndシングルだったFather FigureのシングルCDは
紙ジャケットだったこともあり、買いました。
そこに入っていた「B面曲」が素晴らしかった。
CDなので裏表はないので「B面」ではないけれど。
それがこの曲。
なお、曲が始まるまでメンバー紹介などの話が長いので、
曲をすぐに聴きたい方は3'50"辺りから再生してください。
☆
Love Is In Need Of Love Today
George Michael
僕は最初スティーヴィー・ワンダーのカヴァーとは知らなくて、
こんなにいい曲を書く人なんだって。
ところが、知らなかったというのは嘘でして・・・
この原曲が入っているスティーヴィー・ワンダーのアルバムは
SONGS IN THE KEY OF LIFE、ですね。
それ、高3の頃に買って持っていたのです。
しかも1曲目。
だから聴いたことがないはずは絶対になかったのですが、
なんせ僕は曲覚えが悪い。
LPも長いので数回しか聴かなかったと思う。
調べたところ自分が買ったLPに入っていると分かり、
情けないやら恥ずかしいやらで。
それはともかく、いいですよね、これ。
ジョージ・マイケルの歌い方にとてもよく合っている。
彼には時々そういうことがある。
そして僕がジョージ・マイケルといえばこれという曲。
☆
Somebody To Love
Queen featuring George Michael
1992年に行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサート。
これを聴いてもうあ然としたというか、あまりにも素晴らしすぎる。
フレディに似ているとかそういうことではまったくなく、
ジョージ・マイケルの声にこの曲がはまり過ぎている。
あまりにもはまっていたので、ジョージ・マイケルがフレディの
後釜としてクイーンに入るとまことしやかに囁かれていたくらい。
まあそれはなかったのですが、でもこの際だから、
クイーンの歌ばかり歌ったアルバムでも作ってほしいと、
これは真面目に思っていましたね。
この映像で個人的に面白いのは、最後のところ、
♪Somebody toとジョージ・マイケルが高い声で歌った後、
客席の方を振り返ってマイクを向けると、客がちゃんと
フレディに似せた音程で"love"と歌うところ。
それもまたすごいと思いました。
ジョージ・マイケルはこの前にFAITHに続くアルバムとして
LISTEN WITHOUT PREJUDICEを出し、
全米2位とそこそこヒットしていたのですが、そのアルバムが
前作と違いシングルで受ける曲が少なかったせいか、
状況が怪しくなりかけていたんですよね。
だからフレディ追悼コンサートは起死回生でもありました。
が、結局はレコード会社ともめてCOLUMBIAから出ていった。
そこから先は、変な噂や奇行による逮捕など、転落していった。
それから20年、何度かアルバムを出し、出来としてはいいと
言われながらも第一線に復帰することはなかった。
そして死に至る。
ジョージ・マイケルをひとことでいえば
「もったいない」
これに尽きるのではないかと僕は思います。
「もったいない」まま死んでしまったことでさらに。
訃報に接し記事を書きながら
LISTEN WITHOUT PREJUDICEを2回聴きました。
ひと月くらい前ですが、ラジオの洋楽番組でFaithを聴いて、
LISTEN...をもう一度聴き直してみようと思いました。
それは別に予感がしていたとかそういうことではなく、
音楽を聴き続ける上で以前それほど気に入らなかった
アルバムを聴き直してみようというのはままあることだと。
訃報がきっかけとなったのは悲しいですが・・・
これ、音楽としては悪くない。
しかし確かにパンチ力に欠ける。
地味というか。
もしこれを、売れたアルバム数枚出し15年から20年くらい
やった人が出したのであれば、評価は高かったかもしれない。
(当時も一部音楽評論家には評価は高かった気もするが)。
チャートで売れたのは勢いだけだったと言えなくもない。
ただ、レコード会社と揉めていたということで、もしかすると
ジョージ・マイケルは意図的にヒット曲になりそうな曲を
入れなかったのえは、と勘繰ってしまうくらい。
今日をきっかけに聴き続けるかどうかは、微妙かな。
02

とまあ、思い入れがないという割には長かったですね・・・
同時代だから、そんなものでしょう。
今日、20代前半の人と話をする機会があったのですが、その人は
「あのLast Christmasの人ですか」と言っていて、そうか
その曲は若い人にも浸透しているんだと分かりました。
嬉しかったですね、いい曲は聴き継がれてゆくべきです。
しかしそれにしても、クリスマスに亡くなるなんて、
音楽の女神様はあまりにもいたずらがひどすぎやしないかい?
Last Christmasって今はどうかな、少なくとも昔は
日本ではよく「最後のクリスマス」と誤解されていましたね。
「去年のクリスマス」が正解であるのは言うまでもない。
そもそも「最後のクリスマス」ってどういう状況なんだ、あ、
恋人たちが別れてしまう前の最後のという状況はあり得るけれど、
今回、冗談ではなく
ジョージ・マイケルにとって「最後のクリスマス」になってしまった。
それにしても今年はほんとうに大物が次々と亡くなりましたね。
記事にしなかったけれど、レナード・コーエン、グレッグ・レイクまで。
ジョージ・マイケル
R.I.P.
03


年の瀬も押し詰まり、またミュージシャンの訃報が。
ご存知の方も多いかと思う、ジョージ・マイケルが亡くなりました。
享年53。
先ずはロイターの訃報記事を。
なお、引用者は適宜改行や表記変更を施しています。
***
元「ワム!」の英歌手ジョージ・マイケルさん死去、53歳
12月25日、英歌手ジョージ・マイケルさんが死去した。
53歳だった。
BBCが25日、同氏の代理人の話として報じた。
マイケルさんの広報担当者が
「私たちの愛すべき息子、兄弟、そして友人であるジョージが、
このクリスマスの期間に自宅で亡くなったことは大きな悲しみだ。
族はこの困難な時にあってプライバシーを
尊重してほしいと望んでいる。
現時点でこれ以上のコメントはない」
と発表した。
英警察は、マイケルさんの死について
「原因の説明は不可能だが、不審な点はない」としている。
1963年にロンドンでギリシャ系移民の両親の下に生まれた
マイケルさんは、1981年に「ワム!」を結成し
「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」、「ケアレス・ウィスパー」、
「ラスト・クリスマス」などの大ヒットを飛ばした。
ソロアーティストに転向した後も「アイ・ウォント・ユア・セックス」
「 フェイス」などのヒット曲を放ち活躍した。
***
続いてスポニチから関係記事。
***
「最愛の友失った」
エルトン・ジョンら音楽界からマイケル氏追悼の声
英人気歌手のジョージ・マイケル氏が25日、
53歳の若さで死去。
1981年にポップデュオ「ワム!」でデビューし、
ソロとしても数々のヒットを記録したアーティストの急死に、
音楽界からは驚きと追悼の声が続々と寄せられている。
91年にDon't Let The Sun GO Down On Meでデュエットし、
プライベートでも友人だったエルトン・ジョン(69)は
自身のインスタグラムにマイケル氏との2ショット画像を投稿。
「強いショックを受けている。
最愛の友で、最も優しく、
寛大な心を持つ素晴らしいアーティストを失った」
とつづり、マイケル氏の遺族と友人、ファンにお悔やみを述べている。
また、92年に行われたフレディ・マーキュリー氏(享年45)の
追悼コンサートで名曲「愛にすべてを」をコラボするなど
縁の深かった「クイーン」のギタリスト、ブライアン・メイ(69)は
自身のツイッターに追悼メッセージ。
「ジョージ? ジョージ・マイケル?
No…そんなはずない。悲しすぎる」
と取り乱した様子でつぶやいた後、
「言葉がない。ジョージよ、安らかに」と悼んだ。
同じ80年代にデビューしたマドンナ(58)はインスタグラムで
「さようなら、マイフレンド!
また偉大なアーティストがこの世を去った。
2016年、さっさと消え失せてくれない?」
と追悼。
デビッド・ボウイさん、プリンスさんら
大物アーティストの相次ぐ訃報を悲しんだ。
***
正直、ジョージ・マイケルは強い思い入れがある
というほどではありません。
でも、1980年代に洋楽を聴き始めた人間である以上、
彼の音楽に普通に接し、いい歌は好きになっていました。
僕がジョージ・マイケルとワム!を知ったのは、
やはりというかテレビのMTV番組でした。
ただ、クラスでワム!が好きという人が何人か(も)いたのに
僕は知らなくて、或る日テレビで観て「ああこれか」と。
僕は出遅れたくちでした。
なんせ、ワム!を知った直後にもうあの
「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ!」がリリースされたのだから。
☆
Wake Me Up Before You Go-Go
Wham!
ごめんなさい。
僕はそれまでワム!を小ばかにしていました。
この曲もワム!の新曲がかかるというのでテレビが
はしゃぐように大きく取り上げられていたのを、
鼻で笑っていました。
しかし。
曲を聴いて一発で気持ちが540度変わりました。
素晴らしい。
いい歌だ、あまりにも。
へそ曲がりの僕はしかし、すぐにそれを認めたくはなかった。
寝るまでの間、この曲をいいと言って認めてしまっていいのかと
つまらんことで自問自答していました。
翌朝の高校、クラスルームの音楽談義。
この曲で盛り上がりましたね。
ジョージ・マイケル男が見てもかわいいとか、
蛍光色の手袋だけが写るシーンが恐いとか、
何よりいい歌だったよねって。
僕はしばらく「うんうん」と生返事をするだけでしたが、
そうか、ここで僕が「よかった」と言うとみんな驚くかなと思い、
「確かにいい曲ではあったな」というようなことを言いました。
誰も驚かなかった。
自意識過剰でした(笑)。
いい歌だと思うのが当たり前という雰囲気でした。
この曲はほんとうに好きですよ。
当時よりむしろ今の方が好き。
というのも、数年前から僕はソウルを真面目に聴き始めましたが、
この曲はモータウンですよね。
僕はモータウン大好き人間ですが、当時はそこが結びつかなくて、
ただただロックにしては軽い曲としか映らなかったのでしょう。
今の方が好き、そうなった確かなきっかけがひとつあります。
2009年のことだ(なぜか覚えている)、1月だったと思う、
早朝に千歳に鳥を見に行った時にカーステレオが故障し、
CDが再生できなくなりました。
仕方がないのでラジオをつけたところ、この曲が流れてきました。
それは洋楽番組ではない普通の情報番組でしたが、
そんな中で洋楽が聴ける、それだけで嬉しかった。
その時、この曲がこんなにまでいい曲だったなんて、と。
その瞬間は音楽に飢えていたからでしょうかね。
僕がこの曲をよく口ずさむようになったのはそれからのことです。
話は80年代に戻ります。
続いてあのCareless Whisperがシングルカット。
僕はクラスルームでこう言いました。
「こんな歌謡曲みたいな歌がアメリカで売れるはずがない」
この曲は見事ビルボードNo.1に輝きました。
はい、僕は英国勢が苦手でした(笑)。
と同時に、アメリカのヒットチャートの奥深さも知りましたね。
この曲がヒットしたことで僕もついにLP MAKE IT BIG
をタワーレコードで買いました。
タワレコのはUS盤で他の人が買ったのとは
ジャケットが違うのが密かな自慢でした。
ワム!といえばLast Christmasの話もしなければならない。
といってこの話はクリスマスCDのところでしたばかりですが、
時系列がどうだったか思い出せなかったので
ウィキペディアで調べると、MAKE IT BIGがまだまだ
ヒットしていた頃だったんだ、そうだったか。
これの次のシングルがFreedomでした。
次の話は曲から先に行きます。
☆
Everything She Wants
Wham!
Freedomの次のシングル。
でもFreedomより売れてビルボードNo.1に輝いた曲。
でもそれはリミックスだったのではないかな。
86年、僕は浪人生で車の免許を取り、
家の車で外出するようになりました。
当時はまだレコードを買ってカセットテープに録って
カーステレオで聴いていましたが、それも新鮮な体験でした。
輸入ドーナツ盤をよく買っていたのでそれを適当にテープに
録っていた中に、ワム!のEverything She Wantsがありました。
7月の或る日、土用丑の日ということで、近くにいた祖母に
うなぎ屋さんまで乗せて行ってと言われて行くことに。
従弟も一緒に来ました、確かまだ小学生だった。
カーステレオからEverything She Wantsがかかった時、
従弟が途中のハミングの部分を口ずさみはじめました。
この歌知ってるのと聞くと知らないという。
そういう人でも口ずさんでしまうのはいい曲なんだよなと。
うなぎ屋に着くまで、いやそこから家に帰るまで何度も何度も
繰り返しかけて口ずさんでいました。
MAKE IT BIGの波が終わるとなぜかワム!はスロウダウン。
シングルA Different Cornerがヒットし、中途半端なベスト盤
FINALが出てワム!は解散。
その後1987年に出たジョージ・マイケルのFAITH。
世の中の期待をこれほどまでにしっかりと受け止めて、
大きく世の中に還したアルバムってそうはないでしょ。
ほんとうにすごい人だと思ったものです。
渋谷陽一氏が主に書き1988年に新潮文庫から出た
『ロック・ベスト・アルバム・セレクション』でも、
出たばかりなのにもう取り上げられていたくらい。
FAITHについてはまたいつかまとめて話すとして、
今回はシングルB面曲を1曲だけ。
2ndシングルだったFather FigureのシングルCDは
紙ジャケットだったこともあり、買いました。
そこに入っていた「B面曲」が素晴らしかった。
CDなので裏表はないので「B面」ではないけれど。
それがこの曲。
なお、曲が始まるまでメンバー紹介などの話が長いので、
曲をすぐに聴きたい方は3'50"辺りから再生してください。
☆
Love Is In Need Of Love Today
George Michael
僕は最初スティーヴィー・ワンダーのカヴァーとは知らなくて、
こんなにいい曲を書く人なんだって。
ところが、知らなかったというのは嘘でして・・・
この原曲が入っているスティーヴィー・ワンダーのアルバムは
SONGS IN THE KEY OF LIFE、ですね。
それ、高3の頃に買って持っていたのです。
しかも1曲目。
だから聴いたことがないはずは絶対になかったのですが、
なんせ僕は曲覚えが悪い。
LPも長いので数回しか聴かなかったと思う。
調べたところ自分が買ったLPに入っていると分かり、
情けないやら恥ずかしいやらで。
それはともかく、いいですよね、これ。
ジョージ・マイケルの歌い方にとてもよく合っている。
彼には時々そういうことがある。
そして僕がジョージ・マイケルといえばこれという曲。
☆
Somebody To Love
Queen featuring George Michael
1992年に行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサート。
これを聴いてもうあ然としたというか、あまりにも素晴らしすぎる。
フレディに似ているとかそういうことではまったくなく、
ジョージ・マイケルの声にこの曲がはまり過ぎている。
あまりにもはまっていたので、ジョージ・マイケルがフレディの
後釜としてクイーンに入るとまことしやかに囁かれていたくらい。
まあそれはなかったのですが、でもこの際だから、
クイーンの歌ばかり歌ったアルバムでも作ってほしいと、
これは真面目に思っていましたね。
この映像で個人的に面白いのは、最後のところ、
♪Somebody toとジョージ・マイケルが高い声で歌った後、
客席の方を振り返ってマイクを向けると、客がちゃんと
フレディに似せた音程で"love"と歌うところ。
それもまたすごいと思いました。
ジョージ・マイケルはこの前にFAITHに続くアルバムとして
LISTEN WITHOUT PREJUDICEを出し、
全米2位とそこそこヒットしていたのですが、そのアルバムが
前作と違いシングルで受ける曲が少なかったせいか、
状況が怪しくなりかけていたんですよね。
だからフレディ追悼コンサートは起死回生でもありました。
が、結局はレコード会社ともめてCOLUMBIAから出ていった。
そこから先は、変な噂や奇行による逮捕など、転落していった。
それから20年、何度かアルバムを出し、出来としてはいいと
言われながらも第一線に復帰することはなかった。
そして死に至る。
ジョージ・マイケルをひとことでいえば
「もったいない」
これに尽きるのではないかと僕は思います。
「もったいない」まま死んでしまったことでさらに。
訃報に接し記事を書きながら
LISTEN WITHOUT PREJUDICEを2回聴きました。
ひと月くらい前ですが、ラジオの洋楽番組でFaithを聴いて、
LISTEN...をもう一度聴き直してみようと思いました。
それは別に予感がしていたとかそういうことではなく、
音楽を聴き続ける上で以前それほど気に入らなかった
アルバムを聴き直してみようというのはままあることだと。
訃報がきっかけとなったのは悲しいですが・・・
これ、音楽としては悪くない。
しかし確かにパンチ力に欠ける。
地味というか。
もしこれを、売れたアルバム数枚出し15年から20年くらい
やった人が出したのであれば、評価は高かったかもしれない。
(当時も一部音楽評論家には評価は高かった気もするが)。
チャートで売れたのは勢いだけだったと言えなくもない。
ただ、レコード会社と揉めていたということで、もしかすると
ジョージ・マイケルは意図的にヒット曲になりそうな曲を
入れなかったのえは、と勘繰ってしまうくらい。
今日をきっかけに聴き続けるかどうかは、微妙かな。
02

とまあ、思い入れがないという割には長かったですね・・・
同時代だから、そんなものでしょう。
今日、20代前半の人と話をする機会があったのですが、その人は
「あのLast Christmasの人ですか」と言っていて、そうか
その曲は若い人にも浸透しているんだと分かりました。
嬉しかったですね、いい曲は聴き継がれてゆくべきです。
しかしそれにしても、クリスマスに亡くなるなんて、
音楽の女神様はあまりにもいたずらがひどすぎやしないかい?
Last Christmasって今はどうかな、少なくとも昔は
日本ではよく「最後のクリスマス」と誤解されていましたね。
「去年のクリスマス」が正解であるのは言うまでもない。
そもそも「最後のクリスマス」ってどういう状況なんだ、あ、
恋人たちが別れてしまう前の最後のという状況はあり得るけれど、
今回、冗談ではなく
ジョージ・マイケルにとって「最後のクリスマス」になってしまった。
それにしても今年はほんとうに大物が次々と亡くなりましたね。
記事にしなかったけれど、レナード・コーエン、グレッグ・レイクまで。
ジョージ・マイケル
R.I.P.
03

2016年11月15日
レオン・ラッセル
01

昨日朝、レオン・ラッセルの訃報に接しました。
「帽子が印象的なCDジャケット写真集」の記事(こちら)で、
取り上げたばかりといこともあり、驚きました、そして悲しい。
先ずはRO69のネット記事を引用させていただきます。
***
レオン・ラッセルが他界。享年74
ゴスペル、ブルース、カントリーを融合した独自のスタイルで活躍した
レオン・ラッセルが11月13日の日曜日、
アメリカのテネシー州ナッシュビルで74歳の生涯を終えた。
レオン・ラッセルの公式サイトによれば
特定の死因は明らかにされていないが、
就寝中にそのまま逝去したという。
http://www.leonrussellrecords.com/news.shtml
ラッセル氏の健康状態は近年大幅に後退しており、
2010年には脳脊髄液漏のため手術を受けており、
心不全の治療も受けていたという。
また、彼の故郷であるオクラホマの
「historical society of Oklahoma」のニュースによれば、
今年7月に心臓発作を起こし更なる手術を予定していたという。
***
寝ていてそのまま亡くなったというのは、弱っていたのかな。
健康状態がよろしくなかったのですね。
外見のイメージ通りという感じがしてしまうのが、
余計に悲しいところです。
レオン・ラッセルは、ロックを聴き始めて割と早く、
いやCDの時代になって早くに初期のアルバム2枚買いましたが、
でも当時はA Song For You以外はあまり琴線に触れず。
やっぱりスワンプロックが苦手だったんだなあって。
ビートルズとの接点は、解散後のジョージ・ハリスンの
「バングラデシュ」があり、レオンの2枚目には
ジョージが参加しているというのでCDを買いました。
しかし、それはむしろジョージがそっちの世界に行ったような
感覚だから、僕には正直「アウェイ感」がありました。
その後はずっとその2枚をほぼオリンピック周期で
思い出したように聴いてきた、というくらい。
転機となったのは5年前、2011年9月。
CDも扱う古書店で、エルトン・ジョンとのアルバム
UNION(アルバム記事はこちら)を見つけて買ったことでした。
これが素晴らしい、ほんとうに素晴らしい。
このCDとの出会いがなければ今頃僕はいまだに、
レオン・ラッセルもエルトン・ジョンも聴いていなかったかもしれない。
この作品は、エルトンはエルトンらしく、レオンはレオンらしく歌う、
ただそれだけなのになぜか不思議な一体感があるんですよね。
ぜひ一度聴いていただきたいアルバムです。
あ、と思ったけど順序が違った、申し訳ない、遡って2011年8月、
LIVE IN JAPANを買ったことがそもそものきっかけでした。
1974年に日本だけで出た同名LPに曲を追加し、
新たなライヴ盤としてその頃に出たのをAmazonで知り、
買って聴いてみたのでした。
そのライヴも別BLOGで記事にしています、こちらです。
それを買ってすぐに古書店でUNIONを見つけてはまった、
というのが正しい流れでした。
それがあって僕はいつもの(以前の?)悪い癖で(笑)、
レオン・ラッセルのアルバムを集め始めました。
でも彼は近年は自費出版のような形でリリースしていたようで、
そこまで手を広げると大変、結局UNIONが僕が持っている
レオンの最も新しいアルバムということになっています。
アルバムはだいたい気に入りました。
70年代のはみな素晴らしく、特にCARNEY(記事こちら)がいい。
ジャケットが「ブッチー武者」みたいなやつですね・・・
あと、車の中で犬を抱っこしたジャケットが悲し気な
AMERICANAも気に入りました。
ただ、よく聴き込んだかといわれれば自信はない。
最近、CDの棚を整理していますが、
その際にレオン・ラッセルのコーナーを見て、
ああもっと聴き込みたいと思っていたところでした。
それだけに悲しいですね。
02

レオン・ラッセル。
僕くらいの年代で洋楽を好んで聴く人は、
いつの間にか知っている、そんな人だと思います。
A Song For Youは日本における洋楽を象徴する1曲でもあるし。
僕は10代の浪人生の頃にラジオか何かでA Song For Youを知り、
すごい曲だなあ、こんな曲を作って歌える人がいるんだと
いたく感激したものでした。
大学に入り、ロッド・スチュワートが好きな友だちSと知り合い、
洋楽の話をいろいろするようになってから、
「レオン・ラッセルという人のA Song For Youという歌は知ってる?」
と聞くと、Sは知っていると答えました。
あれすごいよね、うん俺は声が好きじゃないけど、
といった会話をしたようなしないようなおぼろげな記憶がありますが、
やっぱりSもレオン・ラッセルとその曲を知ってたんですよね。
☆
A Song For You
Leon Russell & Friends
(1971)
スタジオライヴ。
やっぱりあの歌い方、真似できないですね。
レオン自身はおろか音楽界全般を見通しても、
これに似た曲はない、それほど個性的な名曲でしょう。
真似るとすぐにばれるだろうし。
もう1曲、CARNEYから。
☆
Queen Of A Roller Derby
Leon Russell
(1972)
軽やかだけど粘ついているって、こんな個性の人、他にはいない。
歌メロのうねうね感がまたある種の快感でもありますね。
20代の頃はレオン・ラッセルをまともに聴くことなく過ぎましたが、
カーペンターズのSuperstarがレオンの曲と知って驚きました。
でも、よく聴くと実はいかにもレオンっぽいと今は思う。
逆にカレンの歌い方が素晴らしいカヴァーなのでしょうね。
☆
Superstar
Carpenters
(1972)
レオン・ラッセルのカヴァーでもう1曲有名なのが
ジョージ・ベンソンのThis Masqueradeでしょう。
僕はこれ逆に、レオン・ラッセルの曲だと知ってから、
ジョージ・ベンソンのを聴きました。
でもレオンによるヴァージョンを初めて聴いたのはつい最近ですが。
☆
This Masquerade
George Benson
この曲も今聴くとピアノの始まり方がいかにもレオン・ラッセル。
そしてこの曲もギターとのユニゾンなど、ジョージ・ベンソンらしい
アレンジに仕上がっている名曲ですね。
僕がレオン・ラッセルに大感謝しなければならないこと。
トム・ペティ。
トム・ペティ&ザ・ハートブレカーズのデビューアルバムは、
当時レオン・ラッセルが持っていたレコードレーベル
Shelterからリリースされました。
レオン・ラッセルはデビュー前のトム・ペティの才能に惚れ込み、
作曲方法からプロとしてやってゆくためのいろはを教え、
自らのレーベルからトム達をレコードデビューさせたという。
面倒見がいい人なのでしょうね、だから周りに多くの人がいた。
その仲間を"shelter people"=「隠された人々」と名乗るあたり、
やっぱりちょっと人を喰ったところがありますね。
トムもそれを受け継いでいるのが面白いところ。
あ、いや、トムのそれは持って生まれたものかな。
☆
Breakdown
Tom Petty & The Heartbreakers
(1978)
最後にもうひとつ僕がどこかで聞いた逸話。
エリック・クラプトンが最初のソロアルバムを作る時、
アメリカにすごい若造がいる、という話を聞きつけ、
スタジオに呼んで会うことにした。
そいつはアメリカ南部の音楽の知識が豊富でエリックは感激した。
それがレオン・ラッセルだったという。
そのアルバムから、クラプトンとレオン・ラッセルの共作のこれを。
☆
Blues Power
Eric Clapton
(1970)
アメリカ南部音楽、スワンプロックの生き字引。
ヒット曲の数とかそういうことではなく、
ロックミュージック全体に与えた影響、遺したものが
とてつもなく大きいミュージシャン。
レオン・ラッセル R.I.P.
03


昨日朝、レオン・ラッセルの訃報に接しました。
「帽子が印象的なCDジャケット写真集」の記事(こちら)で、
取り上げたばかりといこともあり、驚きました、そして悲しい。
先ずはRO69のネット記事を引用させていただきます。
***
レオン・ラッセルが他界。享年74
ゴスペル、ブルース、カントリーを融合した独自のスタイルで活躍した
レオン・ラッセルが11月13日の日曜日、
アメリカのテネシー州ナッシュビルで74歳の生涯を終えた。
レオン・ラッセルの公式サイトによれば
特定の死因は明らかにされていないが、
就寝中にそのまま逝去したという。
http://www.leonrussellrecords.com/news.shtml
ラッセル氏の健康状態は近年大幅に後退しており、
2010年には脳脊髄液漏のため手術を受けており、
心不全の治療も受けていたという。
また、彼の故郷であるオクラホマの
「historical society of Oklahoma」のニュースによれば、
今年7月に心臓発作を起こし更なる手術を予定していたという。
***
寝ていてそのまま亡くなったというのは、弱っていたのかな。
健康状態がよろしくなかったのですね。
外見のイメージ通りという感じがしてしまうのが、
余計に悲しいところです。
レオン・ラッセルは、ロックを聴き始めて割と早く、
いやCDの時代になって早くに初期のアルバム2枚買いましたが、
でも当時はA Song For You以外はあまり琴線に触れず。
やっぱりスワンプロックが苦手だったんだなあって。
ビートルズとの接点は、解散後のジョージ・ハリスンの
「バングラデシュ」があり、レオンの2枚目には
ジョージが参加しているというのでCDを買いました。
しかし、それはむしろジョージがそっちの世界に行ったような
感覚だから、僕には正直「アウェイ感」がありました。
その後はずっとその2枚をほぼオリンピック周期で
思い出したように聴いてきた、というくらい。
転機となったのは5年前、2011年9月。
CDも扱う古書店で、エルトン・ジョンとのアルバム
UNION(アルバム記事はこちら)を見つけて買ったことでした。
これが素晴らしい、ほんとうに素晴らしい。
このCDとの出会いがなければ今頃僕はいまだに、
レオン・ラッセルもエルトン・ジョンも聴いていなかったかもしれない。
この作品は、エルトンはエルトンらしく、レオンはレオンらしく歌う、
ただそれだけなのになぜか不思議な一体感があるんですよね。
ぜひ一度聴いていただきたいアルバムです。
あ、と思ったけど順序が違った、申し訳ない、遡って2011年8月、
LIVE IN JAPANを買ったことがそもそものきっかけでした。
1974年に日本だけで出た同名LPに曲を追加し、
新たなライヴ盤としてその頃に出たのをAmazonで知り、
買って聴いてみたのでした。
そのライヴも別BLOGで記事にしています、こちらです。
それを買ってすぐに古書店でUNIONを見つけてはまった、
というのが正しい流れでした。
それがあって僕はいつもの(以前の?)悪い癖で(笑)、
レオン・ラッセルのアルバムを集め始めました。
でも彼は近年は自費出版のような形でリリースしていたようで、
そこまで手を広げると大変、結局UNIONが僕が持っている
レオンの最も新しいアルバムということになっています。
アルバムはだいたい気に入りました。
70年代のはみな素晴らしく、特にCARNEY(記事こちら)がいい。
ジャケットが「ブッチー武者」みたいなやつですね・・・
あと、車の中で犬を抱っこしたジャケットが悲し気な
AMERICANAも気に入りました。
ただ、よく聴き込んだかといわれれば自信はない。
最近、CDの棚を整理していますが、
その際にレオン・ラッセルのコーナーを見て、
ああもっと聴き込みたいと思っていたところでした。
それだけに悲しいですね。
02

レオン・ラッセル。
僕くらいの年代で洋楽を好んで聴く人は、
いつの間にか知っている、そんな人だと思います。
A Song For Youは日本における洋楽を象徴する1曲でもあるし。
僕は10代の浪人生の頃にラジオか何かでA Song For Youを知り、
すごい曲だなあ、こんな曲を作って歌える人がいるんだと
いたく感激したものでした。
大学に入り、ロッド・スチュワートが好きな友だちSと知り合い、
洋楽の話をいろいろするようになってから、
「レオン・ラッセルという人のA Song For Youという歌は知ってる?」
と聞くと、Sは知っていると答えました。
あれすごいよね、うん俺は声が好きじゃないけど、
といった会話をしたようなしないようなおぼろげな記憶がありますが、
やっぱりSもレオン・ラッセルとその曲を知ってたんですよね。
☆
A Song For You
Leon Russell & Friends
(1971)
スタジオライヴ。
やっぱりあの歌い方、真似できないですね。
レオン自身はおろか音楽界全般を見通しても、
これに似た曲はない、それほど個性的な名曲でしょう。
真似るとすぐにばれるだろうし。
もう1曲、CARNEYから。
☆
Queen Of A Roller Derby
Leon Russell
(1972)
軽やかだけど粘ついているって、こんな個性の人、他にはいない。
歌メロのうねうね感がまたある種の快感でもありますね。
20代の頃はレオン・ラッセルをまともに聴くことなく過ぎましたが、
カーペンターズのSuperstarがレオンの曲と知って驚きました。
でも、よく聴くと実はいかにもレオンっぽいと今は思う。
逆にカレンの歌い方が素晴らしいカヴァーなのでしょうね。
☆
Superstar
Carpenters
(1972)
レオン・ラッセルのカヴァーでもう1曲有名なのが
ジョージ・ベンソンのThis Masqueradeでしょう。
僕はこれ逆に、レオン・ラッセルの曲だと知ってから、
ジョージ・ベンソンのを聴きました。
でもレオンによるヴァージョンを初めて聴いたのはつい最近ですが。
☆
This Masquerade
George Benson
この曲も今聴くとピアノの始まり方がいかにもレオン・ラッセル。
そしてこの曲もギターとのユニゾンなど、ジョージ・ベンソンらしい
アレンジに仕上がっている名曲ですね。
僕がレオン・ラッセルに大感謝しなければならないこと。
トム・ペティ。
トム・ペティ&ザ・ハートブレカーズのデビューアルバムは、
当時レオン・ラッセルが持っていたレコードレーベル
Shelterからリリースされました。
レオン・ラッセルはデビュー前のトム・ペティの才能に惚れ込み、
作曲方法からプロとしてやってゆくためのいろはを教え、
自らのレーベルからトム達をレコードデビューさせたという。
面倒見がいい人なのでしょうね、だから周りに多くの人がいた。
その仲間を"shelter people"=「隠された人々」と名乗るあたり、
やっぱりちょっと人を喰ったところがありますね。
トムもそれを受け継いでいるのが面白いところ。
あ、いや、トムのそれは持って生まれたものかな。
☆
Breakdown
Tom Petty & The Heartbreakers
(1978)
最後にもうひとつ僕がどこかで聞いた逸話。
エリック・クラプトンが最初のソロアルバムを作る時、
アメリカにすごい若造がいる、という話を聞きつけ、
スタジオに呼んで会うことにした。
そいつはアメリカ南部の音楽の知識が豊富でエリックは感激した。
それがレオン・ラッセルだったという。
そのアルバムから、クラプトンとレオン・ラッセルの共作のこれを。
☆
Blues Power
Eric Clapton
(1970)
アメリカ南部音楽、スワンプロックの生き字引。
ヒット曲の数とかそういうことではなく、
ロックミュージック全体に与えた影響、遺したものが
とてつもなく大きいミュージシャン。
レオン・ラッセル R.I.P.
03

2016年08月25日
トゥーツ・シールマンスへ Leave A Tender Moment Alone
01

◎Leave A Tender Moment Alone
▼夜空のモーメント
☆Billy Joel
★ビリー・ジョエル
released in 1983
2016/8/25
ハーモニカ奏者のトゥーツ・シールマンスが亡くなりました。
享年94。
ロイターの記事を引用します。
***
ベルギーのジャズ・ハーモニカ奏者で
世界的なミュージシャンと共演した
トゥーツ・シールマンス氏が22日、死去した。
94歳だった。
エージェンシーが明らかにした。
けがのためブリュッセルの病院に入院中だった。
1922年ブリュッセル生まれ。
65年間のキャリアの初期には、
クラリネット奏者のベニー・グッドマンの欧州ツアーに参加。
52年に米国に渡り、チャーリー・パーカー、
マイルス・デイビス、エラ・フィッツジェラルド、
クインシー・ジョーンズ、スティーヴィー・ワンダーなど、
幅広いジャンルのミュージシャンと共演した。
子ども向け人気テレビ番組「セサミ・ストリート」テーマ曲の
ハーモニカ演奏でも知られている。
***
トゥーツ・シールマンスの人となりをウィキペディアより短く引用します。
***
トゥーツ・シールマンスはベルギーの首都ブリュッセル出身の
ジャズ・ハーモニカ奏者。
シールマンス男爵の称号を持つベルギー貴族である。
日本のCMにも出演しておりハーモニカおじさんの愛称で知られ、
ビル・エヴァンス、ニールス・ペデルセン、ジャコ・パストリアス
と言った巨匠達との共演も果たしている。
「Toots」というニックネームはミュージシャンの
「Toots Mondello」と「Toots Camarata」に由来している。
幼少時代は3歳の頃からアコーディオンの演奏をするようになり、
その後は趣味としてハーモニカの演奏も始めたことが、
後のハーモニカ奏者になる起点にもなっている。
10代の頃にはギターを弾くようになり、
第2次世界大戦時のドイツ軍占領時期にはジャズの虜となって、
ジャンゴ・ラインハルトに憧れ、
チャーリー・パーカーの音楽からも影響を受けるようになった。
1940年代にギタリストとして音楽活動を開始したが、
ハーモニカの方が評判となった。
その頃のステージング・スタイルはギターを弾きながら肩から掛けた
ハーモニカ・ホルダーのハーモニカを吹く、といったスタイルだった。
トゥーツの最初の国際的な演奏は1950年に
ベニー・グッドマンのヨーロッパ・コンサート・ツアーに参加したときで、
この後トゥーツはアメリカへ移住することとなり、
本格的にジャズへの道を歩むようになる。
***
本日の1曲、Leave A Tender Moment Alone ビリー・ジョエル
僕がトゥーツ・シールマンズの音を初めて聴いて知ったのは
この曲でした。
そういう人は多いのではないでしょうか。
ところが。
僕は、トゥーツ・シールマンスその人のCDを
買って聴いたことがありません。
音楽を聴いたことがないのに記事を上げるなんてとんでもない、
と思われるかもしれない。
しかしそれでも、訃報に接して何か書き記したくこの曲を選びました。
バカの一つ覚え、まさにバカですね(笑)。
☆
Leave A Tender Moment Alone
Billy Joel
(1983)
ハーモニカを吹いているのがもちろんトゥーツ・シールマンス。
この曲はシングルカットされたものの公式ビデオクリップは作られず、
この映像がMTV番組などでクリップとして流れていました。
最後にOKのサインをするのが印象的で、
優しいおじいさんだなあと思ったものでした。
曲について。
僕はこの曲、最初に聴いて歌詞を読んだ時、
なんとももどかしい思いになりました。
高校生から大学生くらいの年齢の、恋愛に慣れていない
男性の心象風景を詠んだもの。
高校生だった僕は、まだそんな経験はなかったけれど、
そのうち、あまり遠くないこの先こんな気持ちになるのかなと。
ビリーはアルバムAN INNOCENT MANにおいて、
Tell Her About Itのように「正々堂々と打ち明けてしまえ」
と言う一方、こんなもどかしいことも言っている。
もっとも、「打ち明けてしまえ」若者に対しての助言でいわば
「無責任」な発言ですが、自分が主語であるこの曲でビリー自身は
彼女に対して煮え切らない態度をとっていたわけですけどね(笑)。
どれくらいもどかしいか。
歌詞を訳して書いてみます。
***
恋をしているけれど
時々恐くなる
場違いなことを言ってしまうけれど
もっと他に言うべきことがあるんじゃないかって
彼女と会話をつなぐのにおちゃらけで言うのは
よくないと分かっていても
やっぱり何かが恐いんだ
だけど今のこの気持ちは最高のものだから
間違いない、夜の優しい時間に任せておけばいいんだな
そうさ僕は恋しているのさ
もっとリラックスしなければならないようだけれど
うっかりしたことを言ってしまうんだ
目の前のことから逃れようと思って
彼女が近寄ってくると
僕はどこかに逃げたくなる
そんなことするのは間違いだと
言ってしまうかもしれない
だけどやっぱり彼女は最高さ
こんな女性には会ったことがない
彼女こそなんだ
だから、夜の優しい時間に任せてこう
でも僕だけじゃなかったんだよ
緊張するとぼろぼろになってしまうのは
僕が真剣なムードになると
彼女も黙り込んで恥ずかし気な顔をするんだ
夜の優しい時間のままにしておこう
***
ビリーは自分がハンサムで持てる男ではないと
自覚していたそうですが、でも僕のような一般人から見れば
お金持ちで持てる人であるのは違いない。
この曲の歌詞を読んで、そんな大スターでも
10代の男の子と同じようなことを思うだと分かり、
ビリーへの心の距離が一気に近くなった、そんな曲です。
いやあ、それにしても読めば読むほどもどかしい。
僕もここまでだったかな・・・記憶のはるかかなたですが(笑)。
LPにあるビリー自身のライナーノーツによると、ビリーは或る日、
雑誌で"leave a tender moment alone"という文句を見つけ、
これはいつか歌になるとメモに書き留めておいたのだそうです。
またこれは、1960年前後のソウルやR&Bを自分なりに解釈して表した
アルバムAN INNOCENT MANにおいて、
スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズのソフトな曲への
オマージュとしての意味もあるのだそうです。
◇
トゥーツ・シールマンス。
バカの一つ覚えのせいで、トゥーツ・シールマンスの
僕のイメージはまさにこの曲なのです。
といって、この曲の"I"ではなく、そういう若者を
温かい目で見守る優しいおじさん。
これからは空の上から優しく見守り続けてくれることでしょう。
僕はもう若者ではないけれど。
02

トゥーツ・シールマンスについて、ウィキペディアに
見逃してはならない項目があったので引用します。
なお、引用者は一部表記変更を行っています。
***
ジョン・レノンへの影響
ビートルズのジョン・レノンはビートルズ、
デビュー前ハンブルク巡業公演中の1959年に、
現地クラブへ出演していたジョージ・シアリング・クインテットでの
トゥーツの演奏を見て影響を受ける。
そのスタイルに憧れ、トゥーツが当時使っていた
リッケンバッカーのショート・スケール・モデルと
ハーモニカに傾倒し、自身もトゥーツと同様に
ショート・スケール型のリッケンバッカー モデル#325と
ハーモニカを使うようになった。
ジョン・レノンのリッケンバッカーも元々アルダー材を使った
1958年型ナチュラル・フィニッシュの3ピックアップ・モデルだったが、
レコード・デビュー直前の1962年9月には
ジェット・ブラックへ塗り替えられ、
ボリュームとトーン・コントロールのノブが変えられて、
ビートルズ時代に使っていて有名な姿へと変わっている。
そして、ビートルズデビュー後もしばらくはリッケンバッカーと
ハーモニカがジョン・レノンのトレードマークになっていて、
トゥーツの影響はこういった形でジョンにリスペクトされていた。
***
なるほど、はっきりそう書かれるほど影響を受けていたんだ。
ということでジョン・レノンも1曲、ビートルズからいきましょう。
☆
I Should Have Known Better
The Beatles
(1964)
使い回しですが、213曲でまだ取り上げていない曲を
使うわけにもゆかず。
その上この曲でジョンはリッケンバッカーを弾いていないと
思われるのですが、そこはまあ大目に見ていただければと。
実はですね、そのジョン・レノンの影響を受けて、
僕もハーモニカを買いました。
まだ10代の頃、ビートルズのファンクラブの通販で
ジョンが使っていたモデルとして売られていたのでした。
03

これがそのハーモニカMarine Band
つまり僕も間接的に影響を受けていたわけですね。
写真02は箱の外観です。
キィはC、その時はそれしか売られていなかったので。
しかし僕はハーモニカを演奏できない。
ギターとベースを弾けるのが奇跡というくらいに、
僕は音楽センスがまるでない人間なのでした。
でも、懲りずにというか、ハーモニカはまだあとふたつ持っています。
04

Blues Harp
ハーモニカの異名ともいえるほど有名ですが、
8年前だったか、いや9年前かな、
東京に行った時、御茶ノ水の楽器店で買いました。
ふらっと店に寄ってなんとなく買った感じ。
キィはGです、Cを持っていたので。
もうひとつ
05

ホーナー150年記念モデル
これも8年前の東京行の時、
銀座の山野楽器で見つけて買いました。
木箱に入ったこちらはもちろんというか吹いたことがありません。
◇
トゥーツ・シールマンス、僕のちょっとした思い出を。
3年前、札幌の音楽友だちと「音楽談義」をしました。
要は(僕としては珍しく)飲みに行ったわけですが、
狸小路7丁目の外れにある音楽バーに行きました。
以前はよく行っていたお店ですが、その時は8年振りくらいでした。
そこは料理もおいしく、僕は最初に夕食メニューを注文し、
友だちはビール、僕はバーボンの水割りで乾杯しました。
その時かかっていた音楽が当然話題に。
ハーモニカがフィーチャーされている、何だろう、誰だろうと
マスターに聞いたところ、トゥーツ・シールマンス。
やはりと思い、友だちと話が盛り上がりました。
もちろんバカの僕はそこでもビリー・ジョエルのこの歌の話を(笑)。
そしてその時もトゥーツ・シールマンスを聴いてみたいねと。
いまだ実現できていません。
ところが、その時マスターが見せてくれたCDを覚えていない。
Amazonで見てもジャケット写真の覚えがない・・・
トゥーツ・シールマンスの動画も幾つか。
☆
Shape Of My Heart
Sting & Toots Thielemans
スティングとの共演。
20年かそれくらい前でしょうか。
☆
Smile
Toots Thielemans
(1992)
こちらは90歳を記念したアルバムに添ったものだと思われます。
先ずはこれを買って遡ってゆこうかと。
☆
Bluesette
Toots Thielemans
(2009)
You-Tubeの"Toots Thielemans"で
いちばん上に出て来たものがこれでした。
トゥーツ・シールマンス
これから自分なりに探して聴いてゆきます。
94歳といえば大往生だけれど、やはりいなくなると寂しい。
R.I.P.
06


◎Leave A Tender Moment Alone
▼夜空のモーメント
☆Billy Joel
★ビリー・ジョエル
released in 1983
2016/8/25
ハーモニカ奏者のトゥーツ・シールマンスが亡くなりました。
享年94。
ロイターの記事を引用します。
***
ベルギーのジャズ・ハーモニカ奏者で
世界的なミュージシャンと共演した
トゥーツ・シールマンス氏が22日、死去した。
94歳だった。
エージェンシーが明らかにした。
けがのためブリュッセルの病院に入院中だった。
1922年ブリュッセル生まれ。
65年間のキャリアの初期には、
クラリネット奏者のベニー・グッドマンの欧州ツアーに参加。
52年に米国に渡り、チャーリー・パーカー、
マイルス・デイビス、エラ・フィッツジェラルド、
クインシー・ジョーンズ、スティーヴィー・ワンダーなど、
幅広いジャンルのミュージシャンと共演した。
子ども向け人気テレビ番組「セサミ・ストリート」テーマ曲の
ハーモニカ演奏でも知られている。
***
トゥーツ・シールマンスの人となりをウィキペディアより短く引用します。
***
トゥーツ・シールマンスはベルギーの首都ブリュッセル出身の
ジャズ・ハーモニカ奏者。
シールマンス男爵の称号を持つベルギー貴族である。
日本のCMにも出演しておりハーモニカおじさんの愛称で知られ、
ビル・エヴァンス、ニールス・ペデルセン、ジャコ・パストリアス
と言った巨匠達との共演も果たしている。
「Toots」というニックネームはミュージシャンの
「Toots Mondello」と「Toots Camarata」に由来している。
幼少時代は3歳の頃からアコーディオンの演奏をするようになり、
その後は趣味としてハーモニカの演奏も始めたことが、
後のハーモニカ奏者になる起点にもなっている。
10代の頃にはギターを弾くようになり、
第2次世界大戦時のドイツ軍占領時期にはジャズの虜となって、
ジャンゴ・ラインハルトに憧れ、
チャーリー・パーカーの音楽からも影響を受けるようになった。
1940年代にギタリストとして音楽活動を開始したが、
ハーモニカの方が評判となった。
その頃のステージング・スタイルはギターを弾きながら肩から掛けた
ハーモニカ・ホルダーのハーモニカを吹く、といったスタイルだった。
トゥーツの最初の国際的な演奏は1950年に
ベニー・グッドマンのヨーロッパ・コンサート・ツアーに参加したときで、
この後トゥーツはアメリカへ移住することとなり、
本格的にジャズへの道を歩むようになる。
***
本日の1曲、Leave A Tender Moment Alone ビリー・ジョエル
僕がトゥーツ・シールマンズの音を初めて聴いて知ったのは
この曲でした。
そういう人は多いのではないでしょうか。
ところが。
僕は、トゥーツ・シールマンスその人のCDを
買って聴いたことがありません。
音楽を聴いたことがないのに記事を上げるなんてとんでもない、
と思われるかもしれない。
しかしそれでも、訃報に接して何か書き記したくこの曲を選びました。
バカの一つ覚え、まさにバカですね(笑)。
☆
Leave A Tender Moment Alone
Billy Joel
(1983)
ハーモニカを吹いているのがもちろんトゥーツ・シールマンス。
この曲はシングルカットされたものの公式ビデオクリップは作られず、
この映像がMTV番組などでクリップとして流れていました。
最後にOKのサインをするのが印象的で、
優しいおじいさんだなあと思ったものでした。
曲について。
僕はこの曲、最初に聴いて歌詞を読んだ時、
なんとももどかしい思いになりました。
高校生から大学生くらいの年齢の、恋愛に慣れていない
男性の心象風景を詠んだもの。
高校生だった僕は、まだそんな経験はなかったけれど、
そのうち、あまり遠くないこの先こんな気持ちになるのかなと。
ビリーはアルバムAN INNOCENT MANにおいて、
Tell Her About Itのように「正々堂々と打ち明けてしまえ」
と言う一方、こんなもどかしいことも言っている。
もっとも、「打ち明けてしまえ」若者に対しての助言でいわば
「無責任」な発言ですが、自分が主語であるこの曲でビリー自身は
彼女に対して煮え切らない態度をとっていたわけですけどね(笑)。
どれくらいもどかしいか。
歌詞を訳して書いてみます。
***
恋をしているけれど
時々恐くなる
場違いなことを言ってしまうけれど
もっと他に言うべきことがあるんじゃないかって
彼女と会話をつなぐのにおちゃらけで言うのは
よくないと分かっていても
やっぱり何かが恐いんだ
だけど今のこの気持ちは最高のものだから
間違いない、夜の優しい時間に任せておけばいいんだな
そうさ僕は恋しているのさ
もっとリラックスしなければならないようだけれど
うっかりしたことを言ってしまうんだ
目の前のことから逃れようと思って
彼女が近寄ってくると
僕はどこかに逃げたくなる
そんなことするのは間違いだと
言ってしまうかもしれない
だけどやっぱり彼女は最高さ
こんな女性には会ったことがない
彼女こそなんだ
だから、夜の優しい時間に任せてこう
でも僕だけじゃなかったんだよ
緊張するとぼろぼろになってしまうのは
僕が真剣なムードになると
彼女も黙り込んで恥ずかし気な顔をするんだ
夜の優しい時間のままにしておこう
***
ビリーは自分がハンサムで持てる男ではないと
自覚していたそうですが、でも僕のような一般人から見れば
お金持ちで持てる人であるのは違いない。
この曲の歌詞を読んで、そんな大スターでも
10代の男の子と同じようなことを思うだと分かり、
ビリーへの心の距離が一気に近くなった、そんな曲です。
いやあ、それにしても読めば読むほどもどかしい。
僕もここまでだったかな・・・記憶のはるかかなたですが(笑)。
LPにあるビリー自身のライナーノーツによると、ビリーは或る日、
雑誌で"leave a tender moment alone"という文句を見つけ、
これはいつか歌になるとメモに書き留めておいたのだそうです。
またこれは、1960年前後のソウルやR&Bを自分なりに解釈して表した
アルバムAN INNOCENT MANにおいて、
スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズのソフトな曲への
オマージュとしての意味もあるのだそうです。
◇
トゥーツ・シールマンス。
バカの一つ覚えのせいで、トゥーツ・シールマンスの
僕のイメージはまさにこの曲なのです。
といって、この曲の"I"ではなく、そういう若者を
温かい目で見守る優しいおじさん。
これからは空の上から優しく見守り続けてくれることでしょう。
僕はもう若者ではないけれど。
02

トゥーツ・シールマンスについて、ウィキペディアに
見逃してはならない項目があったので引用します。
なお、引用者は一部表記変更を行っています。
***
ジョン・レノンへの影響
ビートルズのジョン・レノンはビートルズ、
デビュー前ハンブルク巡業公演中の1959年に、
現地クラブへ出演していたジョージ・シアリング・クインテットでの
トゥーツの演奏を見て影響を受ける。
そのスタイルに憧れ、トゥーツが当時使っていた
リッケンバッカーのショート・スケール・モデルと
ハーモニカに傾倒し、自身もトゥーツと同様に
ショート・スケール型のリッケンバッカー モデル#325と
ハーモニカを使うようになった。
ジョン・レノンのリッケンバッカーも元々アルダー材を使った
1958年型ナチュラル・フィニッシュの3ピックアップ・モデルだったが、
レコード・デビュー直前の1962年9月には
ジェット・ブラックへ塗り替えられ、
ボリュームとトーン・コントロールのノブが変えられて、
ビートルズ時代に使っていて有名な姿へと変わっている。
そして、ビートルズデビュー後もしばらくはリッケンバッカーと
ハーモニカがジョン・レノンのトレードマークになっていて、
トゥーツの影響はこういった形でジョンにリスペクトされていた。
***
なるほど、はっきりそう書かれるほど影響を受けていたんだ。
ということでジョン・レノンも1曲、ビートルズからいきましょう。
☆
I Should Have Known Better
The Beatles
(1964)
使い回しですが、213曲でまだ取り上げていない曲を
使うわけにもゆかず。
その上この曲でジョンはリッケンバッカーを弾いていないと
思われるのですが、そこはまあ大目に見ていただければと。
実はですね、そのジョン・レノンの影響を受けて、
僕もハーモニカを買いました。
まだ10代の頃、ビートルズのファンクラブの通販で
ジョンが使っていたモデルとして売られていたのでした。
03

これがそのハーモニカMarine Band
つまり僕も間接的に影響を受けていたわけですね。
写真02は箱の外観です。
キィはC、その時はそれしか売られていなかったので。
しかし僕はハーモニカを演奏できない。
ギターとベースを弾けるのが奇跡というくらいに、
僕は音楽センスがまるでない人間なのでした。
でも、懲りずにというか、ハーモニカはまだあとふたつ持っています。
04

Blues Harp
ハーモニカの異名ともいえるほど有名ですが、
8年前だったか、いや9年前かな、
東京に行った時、御茶ノ水の楽器店で買いました。
ふらっと店に寄ってなんとなく買った感じ。
キィはGです、Cを持っていたので。
もうひとつ
05

ホーナー150年記念モデル
これも8年前の東京行の時、
銀座の山野楽器で見つけて買いました。
木箱に入ったこちらはもちろんというか吹いたことがありません。
◇
トゥーツ・シールマンス、僕のちょっとした思い出を。
3年前、札幌の音楽友だちと「音楽談義」をしました。
要は(僕としては珍しく)飲みに行ったわけですが、
狸小路7丁目の外れにある音楽バーに行きました。
以前はよく行っていたお店ですが、その時は8年振りくらいでした。
そこは料理もおいしく、僕は最初に夕食メニューを注文し、
友だちはビール、僕はバーボンの水割りで乾杯しました。
その時かかっていた音楽が当然話題に。
ハーモニカがフィーチャーされている、何だろう、誰だろうと
マスターに聞いたところ、トゥーツ・シールマンス。
やはりと思い、友だちと話が盛り上がりました。
もちろんバカの僕はそこでもビリー・ジョエルのこの歌の話を(笑)。
そしてその時もトゥーツ・シールマンスを聴いてみたいねと。
いまだ実現できていません。
ところが、その時マスターが見せてくれたCDを覚えていない。
Amazonで見てもジャケット写真の覚えがない・・・
トゥーツ・シールマンスの動画も幾つか。
☆
Shape Of My Heart
Sting & Toots Thielemans
スティングとの共演。
20年かそれくらい前でしょうか。
☆
Smile
Toots Thielemans
(1992)
こちらは90歳を記念したアルバムに添ったものだと思われます。
先ずはこれを買って遡ってゆこうかと。
☆
Bluesette
Toots Thielemans
(2009)
You-Tubeの"Toots Thielemans"で
いちばん上に出て来たものがこれでした。
トゥーツ・シールマンス
これから自分なりに探して聴いてゆきます。
94歳といえば大往生だけれど、やはりいなくなると寂しい。
R.I.P.
06

2016年04月22日
プリンスが死ぬなんて
01

プリンスが亡くなりました。
最初に見た毎日新聞のネット記事から。
なお、以下の引用文はすべて敬称略としております。
***
AP通信によると、米人気歌手のプリンス(57)が21日、
ミネソタ州ミネアポリス近郊の自宅で
死亡しているのが見つかった。
プリンスの広報担当者が明かした。
CNNによると、プリンスは今月初め、
体調不良のためアトランタで予定されていたコンサートを
少なくとも1回キャンセルした。
その後、アトランタでコンサートを開いた後、病院に運ばれた。
インフルエンザにかかったという情報もあったが、
報道担当者は問題ないとしていた。
プリンスはグラミー賞を7回受賞したポップミュージックのスター。
米メディアは突然の死を衝撃をもって伝えている。
***
続いてAFPの記事をふたつ
***
ポップミュージック界のアイコンで、
ファンクとロックを融合させたサウンドの草分けとして
音楽界で最も影響力のある人物の一人となったプリンスが21日、
米ミネソタ州の自宅にあるスタジオで死去した。
57歳だった。
プリンスは1週間前、重いインフルエンザにかかって入院したものの、
その後大事には至っていないとしていた。
プリンスの広報担当者は、
「伝説のアイコン的パフォーマー、
プリンス・ロジャース・ネルソンがけさ(21日朝)、
所有する(自宅兼スタジオの)ペイズリー・パークで亡くなったことを、
深い悲しみをもって認めます」
と述べた。
同州カーバー郡保安官事務所が出した声明によると、
緊急通報を受けて現場に駆け付けたところ、
スタジオのエレベーター内で意識不明となっていた
プリンスを発見したという。
蘇生処置を施したが、そのかいなく
同日午前10時7分(日本時間翌22日午前0時7分)に
死亡が確認された。
詳しい死因は現在も調査中だという。
プリンスは1980年代、ファンクやロックの要素を融合させた
ミネアポリス・サウンドで世界中に旋風を巻き起こした。
1984年のアルバムPURPLE RAINは、
史上最高のアルバムの一つと評されることも多い。
◆
史上最も大きな影響力を持つポップスターの一人、
プリンスが21日、57歳で急死したことを受けて、
音楽界に衝撃が走る中、友人や同世代の著名人、
アーティストなどから次々に追悼の声が寄せられた。
バラク・オバマ米大統領は、
「きょう、世界は創造力の象徴を失った。
彼ほどポピュラー音楽のサウンドや軌跡に
はっきりとした影響を与えた、
あるいはその才能でこれほど多くの人々の
心の琴線に触れた人物はほとんどいない」
との声明を発表。
オバマ大統領は昨年、プリンスや米歌手スティービー・ワンダーを
ホワイトハウスに招きコンサートを開いていた。
また、米歌手のマドンナは
「彼は世界を変えた!! 真の先見者。
何という喪失。
打ちのめされた気分」
とインスタグラムに投稿。
マドンナは1980年代に一時、プリンスさんと交際。
2人は破局後に険悪な関係となった時期もあったが、
その後、和解していた。
マドンナの1989年のアルバムLIKE A PRAYERには、
2人のデュエット曲Love Songが収録された。
プリンスは、この曲がレコーディングされた
プリンス所有のスタジオ「ペイズリー・パーク」で死亡した。
マドンナはインスタグラムに、同曲の歌詞から
『これはラブソングなんかじゃない』
とも投稿している。
以下は、その他の主な著名人が寄せた追悼のメッセージ。
英ロックバンド、ローリング・ストーンズのボーカル、
ミック・ジャガー:
「プリンスの才能は無限だった。
過去30年間で、最もユニークで才能ある
アーティストのうちの一人だった」
米ソウル歌手アレサ・フランクリン:
「何という痛手。
全く実感が湧かない。
信じられない気がする。
彼こそ唯一無二だった。
プリンスは本当にオンリーワンだった」
米歌手レニー・クラビッツ:
「音楽界の兄であり、友人だった…
私の中の可能性を見出し、すべてを変え
、最後まで一貫性を通した人物が逝ってしまった。
胸が張り裂けそうだ」
英歌手ビリー・アイドル:
「オー・マイ・ゴッド、プリンスが死んだなんて信じられない、
ものすごく偉大な才能だった…RIP(安らかに眠れ)」
米シンガーソングライター、ライオネル・リッチー:
「信じられない、これ以上ないほどショックを受けている。
素晴らしい思い出が無数にある、寂しくなるよ」
英ポップグループ、カルチャー・クラブのボーカル、
ボーイ・ジョージ:
「きょうがこれまでで最悪の日だ。
プリンス、安らかに眠ってくれ。
私は泣いている!」
米歌手ケイティ・ペリー:
「こんなにもあっけなく…世界はあふれる魔法を失ってしまった。
プリンス、安らかに眠って下さい!
私たちにこんなにもたくさんのものを残してくれてありがとう…」
米映画監督スパイク・リー:
「弟よ、お前がいなくなって寂しい。
プリンスはおかしなネコだったな。
ユーモアのセンスが抜群だった」
***
プリンスの音楽はバイタリティに溢れている。
生きることの楽しさ、嬉しさを体現している。
もちろんつらさ、寂しさ、悲しさもあるけれど、
それらを乗り越えようとする意欲と力を感じる。
今朝起きてすぐにネットで見た訃報。
プリンスと「死」が、寝ぼけ頭にはなかなか結び付かなかった。
ジョークではないかとすら思えた。
でも、現実だった。
今回の追悼記事では直接的に「死」という漢字を使っていますが、
それは、最初はあり得ないと感じたことが現実だった、
その重たさから無意識に僕が選んだ言葉だったかもしれない。
80年代育ちである僕は当然というか、高2の時の
PURPLE RAINからLPを買って聴き始めました。
それまでも1999とLittle Red CorvetteをMTV番組で
観て聴いて面白い音楽だとは思っていました。
映画『パープル・レイン』もロードショーを観に行きました。
150人くらいの小さな劇場で、土曜日の午後だけど
客は30人もいなかった記憶があります。
前売り券を買い、ポスターももらった。
今半券とポスターを探したけど、見当たらなかった。
でもどこかにあるはず、絶対に捨てていない。
それから2枚はLPを、その後はCDを買い続けていましたが、
この辺は長くなるのでまたいずれ。
今回の写真はKissのドーナツ盤。
思い出の曲、思い出のレコード。
ワーナーを辞めた辺りから熱心には聴かなくなっていましたが、
昨年出た本『プリンス論』を読んで、それら以降のアルバムも
また聴いてみようかとは思っていたのですが。
でも、一昨年ワーナーに復帰してからはまた新譜を
熱心に聴くようにはなっていました。
新譜が実は、金曜日ルールでちょうど来週
29日にリリースされるんですよね。
楽しみにしていましたが、その前のあまりに急な知らせ・・・
◆
僕は、ファンかといわれれば、ファンだとは思う。
オリジナルアルバムは一応全部CD持っているし、
コンサートにも行ったことがある。
まあ、それがどうしたといわれればそれまでだけど。
1990年9月、札幌に来たんですよね。
もう学校の夏休みが明けていたけれど、何日か休んで
コンサートまで札幌に残り、観に行きました。
今でも印象に残っているのは、
"Sapporo!"と叫びながらダンスをするプリンスの姿。
2002年、最後の来日の際にも札幌に来ました。
行かなかったのですが、直後からずっと
行けばよかったと後悔しています。
その後悔の念はもう決して消えることはない。
ファンだけど、でも、情報はあまり知らないし、
追うことにはあまり熱心ではなかったかもしれない。
だけど、個人としては好きというか妙にひかれる部分があり、
常に敬意を抱きながら音楽を聴いてきたつもりではありました。
プリンスはYou-Tubeに出た映像を取り締まっているらしく、
残念ながら公式ビデオっクリップが上がっていません。
僕が今朝訃報に接して真っ先に頭に浮かんだ曲は
I Could Never Take The Place Of Your Man
であり、それを紹介したかったのですが、残念。
代わりに、今回、Facebookで多くの人が上げていた映像を。
2004年の「ロックンロールの殿堂」のコンサート。
ジョージ・ハリスンが殿堂入りした年、息子のダーニ・ハリスンと
トム・ペティ、ジェフ・リン、スティーヴ・ウィンウッドに
プリンスが参加しての曲はWhile My Guitar Gently Weeps
While My Guitar Gently Weeps
2004
プリンスどこにいるのかと最初は思う。
ステージ向かって右端で静かにギターを弾いている。
曲が最後まで進み、コーダに入ったところで
プリンスは突如真ん中に出てくる。
後半はギターソロのワンマンショー。
そのいでたち、ギタープレイ、もうすごいとしかいいようがない。
もちろん大好きなトム・ペティとスティーヴ・ウィンウッドがいるけれど
やっぱりこれはプリンスのステージだった、と。
途中でニヤッと笑う、プリンスらしくて好きなところだった。
この笑顔を見て、プリンスが死んだことを実感してしまった。
◆
このセリフはもう何度目か分からない。
今年は本当に僕が聴き育ってきたミュージシャンの訃報が多い、
あまりにも多すぎる。
僕のBLOGの左側にひと月分の過去記事の欄がありますが、
つい2日ほど前、そこからようやく追悼記事がなくなったことに気づき、
少しだけほっとしていたところに今日のプリンス・・・
人間いつか死ぬものだから、ではとてもじゃないが割り切れない。
死因はまだ分からないけれど、人の命はこんなにも儚いものなのかと。
安らかにお眠りください。
02


プリンスが亡くなりました。
最初に見た毎日新聞のネット記事から。
なお、以下の引用文はすべて敬称略としております。
***
AP通信によると、米人気歌手のプリンス(57)が21日、
ミネソタ州ミネアポリス近郊の自宅で
死亡しているのが見つかった。
プリンスの広報担当者が明かした。
CNNによると、プリンスは今月初め、
体調不良のためアトランタで予定されていたコンサートを
少なくとも1回キャンセルした。
その後、アトランタでコンサートを開いた後、病院に運ばれた。
インフルエンザにかかったという情報もあったが、
報道担当者は問題ないとしていた。
プリンスはグラミー賞を7回受賞したポップミュージックのスター。
米メディアは突然の死を衝撃をもって伝えている。
***
続いてAFPの記事をふたつ
***
ポップミュージック界のアイコンで、
ファンクとロックを融合させたサウンドの草分けとして
音楽界で最も影響力のある人物の一人となったプリンスが21日、
米ミネソタ州の自宅にあるスタジオで死去した。
57歳だった。
プリンスは1週間前、重いインフルエンザにかかって入院したものの、
その後大事には至っていないとしていた。
プリンスの広報担当者は、
「伝説のアイコン的パフォーマー、
プリンス・ロジャース・ネルソンがけさ(21日朝)、
所有する(自宅兼スタジオの)ペイズリー・パークで亡くなったことを、
深い悲しみをもって認めます」
と述べた。
同州カーバー郡保安官事務所が出した声明によると、
緊急通報を受けて現場に駆け付けたところ、
スタジオのエレベーター内で意識不明となっていた
プリンスを発見したという。
蘇生処置を施したが、そのかいなく
同日午前10時7分(日本時間翌22日午前0時7分)に
死亡が確認された。
詳しい死因は現在も調査中だという。
プリンスは1980年代、ファンクやロックの要素を融合させた
ミネアポリス・サウンドで世界中に旋風を巻き起こした。
1984年のアルバムPURPLE RAINは、
史上最高のアルバムの一つと評されることも多い。
◆
史上最も大きな影響力を持つポップスターの一人、
プリンスが21日、57歳で急死したことを受けて、
音楽界に衝撃が走る中、友人や同世代の著名人、
アーティストなどから次々に追悼の声が寄せられた。
バラク・オバマ米大統領は、
「きょう、世界は創造力の象徴を失った。
彼ほどポピュラー音楽のサウンドや軌跡に
はっきりとした影響を与えた、
あるいはその才能でこれほど多くの人々の
心の琴線に触れた人物はほとんどいない」
との声明を発表。
オバマ大統領は昨年、プリンスや米歌手スティービー・ワンダーを
ホワイトハウスに招きコンサートを開いていた。
また、米歌手のマドンナは
「彼は世界を変えた!! 真の先見者。
何という喪失。
打ちのめされた気分」
とインスタグラムに投稿。
マドンナは1980年代に一時、プリンスさんと交際。
2人は破局後に険悪な関係となった時期もあったが、
その後、和解していた。
マドンナの1989年のアルバムLIKE A PRAYERには、
2人のデュエット曲Love Songが収録された。
プリンスは、この曲がレコーディングされた
プリンス所有のスタジオ「ペイズリー・パーク」で死亡した。
マドンナはインスタグラムに、同曲の歌詞から
『これはラブソングなんかじゃない』
とも投稿している。
以下は、その他の主な著名人が寄せた追悼のメッセージ。
英ロックバンド、ローリング・ストーンズのボーカル、
ミック・ジャガー:
「プリンスの才能は無限だった。
過去30年間で、最もユニークで才能ある
アーティストのうちの一人だった」
米ソウル歌手アレサ・フランクリン:
「何という痛手。
全く実感が湧かない。
信じられない気がする。
彼こそ唯一無二だった。
プリンスは本当にオンリーワンだった」
米歌手レニー・クラビッツ:
「音楽界の兄であり、友人だった…
私の中の可能性を見出し、すべてを変え
、最後まで一貫性を通した人物が逝ってしまった。
胸が張り裂けそうだ」
英歌手ビリー・アイドル:
「オー・マイ・ゴッド、プリンスが死んだなんて信じられない、
ものすごく偉大な才能だった…RIP(安らかに眠れ)」
米シンガーソングライター、ライオネル・リッチー:
「信じられない、これ以上ないほどショックを受けている。
素晴らしい思い出が無数にある、寂しくなるよ」
英ポップグループ、カルチャー・クラブのボーカル、
ボーイ・ジョージ:
「きょうがこれまでで最悪の日だ。
プリンス、安らかに眠ってくれ。
私は泣いている!」
米歌手ケイティ・ペリー:
「こんなにもあっけなく…世界はあふれる魔法を失ってしまった。
プリンス、安らかに眠って下さい!
私たちにこんなにもたくさんのものを残してくれてありがとう…」
米映画監督スパイク・リー:
「弟よ、お前がいなくなって寂しい。
プリンスはおかしなネコだったな。
ユーモアのセンスが抜群だった」
***
プリンスの音楽はバイタリティに溢れている。
生きることの楽しさ、嬉しさを体現している。
もちろんつらさ、寂しさ、悲しさもあるけれど、
それらを乗り越えようとする意欲と力を感じる。
今朝起きてすぐにネットで見た訃報。
プリンスと「死」が、寝ぼけ頭にはなかなか結び付かなかった。
ジョークではないかとすら思えた。
でも、現実だった。
今回の追悼記事では直接的に「死」という漢字を使っていますが、
それは、最初はあり得ないと感じたことが現実だった、
その重たさから無意識に僕が選んだ言葉だったかもしれない。
80年代育ちである僕は当然というか、高2の時の
PURPLE RAINからLPを買って聴き始めました。
それまでも1999とLittle Red CorvetteをMTV番組で
観て聴いて面白い音楽だとは思っていました。
映画『パープル・レイン』もロードショーを観に行きました。
150人くらいの小さな劇場で、土曜日の午後だけど
客は30人もいなかった記憶があります。
前売り券を買い、ポスターももらった。
今半券とポスターを探したけど、見当たらなかった。
でもどこかにあるはず、絶対に捨てていない。
それから2枚はLPを、その後はCDを買い続けていましたが、
この辺は長くなるのでまたいずれ。
今回の写真はKissのドーナツ盤。
思い出の曲、思い出のレコード。
ワーナーを辞めた辺りから熱心には聴かなくなっていましたが、
昨年出た本『プリンス論』を読んで、それら以降のアルバムも
また聴いてみようかとは思っていたのですが。
でも、一昨年ワーナーに復帰してからはまた新譜を
熱心に聴くようにはなっていました。
新譜が実は、金曜日ルールでちょうど来週
29日にリリースされるんですよね。
楽しみにしていましたが、その前のあまりに急な知らせ・・・
◆
僕は、ファンかといわれれば、ファンだとは思う。
オリジナルアルバムは一応全部CD持っているし、
コンサートにも行ったことがある。
まあ、それがどうしたといわれればそれまでだけど。
1990年9月、札幌に来たんですよね。
もう学校の夏休みが明けていたけれど、何日か休んで
コンサートまで札幌に残り、観に行きました。
今でも印象に残っているのは、
"Sapporo!"と叫びながらダンスをするプリンスの姿。
2002年、最後の来日の際にも札幌に来ました。
行かなかったのですが、直後からずっと
行けばよかったと後悔しています。
その後悔の念はもう決して消えることはない。
ファンだけど、でも、情報はあまり知らないし、
追うことにはあまり熱心ではなかったかもしれない。
だけど、個人としては好きというか妙にひかれる部分があり、
常に敬意を抱きながら音楽を聴いてきたつもりではありました。
プリンスはYou-Tubeに出た映像を取り締まっているらしく、
残念ながら公式ビデオっクリップが上がっていません。
僕が今朝訃報に接して真っ先に頭に浮かんだ曲は
I Could Never Take The Place Of Your Man
であり、それを紹介したかったのですが、残念。
代わりに、今回、Facebookで多くの人が上げていた映像を。
2004年の「ロックンロールの殿堂」のコンサート。
ジョージ・ハリスンが殿堂入りした年、息子のダーニ・ハリスンと
トム・ペティ、ジェフ・リン、スティーヴ・ウィンウッドに
プリンスが参加しての曲はWhile My Guitar Gently Weeps
While My Guitar Gently Weeps
2004
プリンスどこにいるのかと最初は思う。
ステージ向かって右端で静かにギターを弾いている。
曲が最後まで進み、コーダに入ったところで
プリンスは突如真ん中に出てくる。
後半はギターソロのワンマンショー。
そのいでたち、ギタープレイ、もうすごいとしかいいようがない。
もちろん大好きなトム・ペティとスティーヴ・ウィンウッドがいるけれど
やっぱりこれはプリンスのステージだった、と。
途中でニヤッと笑う、プリンスらしくて好きなところだった。
この笑顔を見て、プリンスが死んだことを実感してしまった。
◆
このセリフはもう何度目か分からない。
今年は本当に僕が聴き育ってきたミュージシャンの訃報が多い、
あまりにも多すぎる。
僕のBLOGの左側にひと月分の過去記事の欄がありますが、
つい2日ほど前、そこからようやく追悼記事がなくなったことに気づき、
少しだけほっとしていたところに今日のプリンス・・・
人間いつか死ぬものだから、ではとてもじゃないが割り切れない。
死因はまだ分からないけれど、人の命はこんなにも儚いものなのかと。
安らかにお眠りください。
02

2016年03月15日
Touch And Go エマーソン・レイク&パウエル ~追悼キース・エマーソン
01

キース・エマーソンが亡くなりました。
今回は複数のネット上の記事をひとつにまとめて紹介します。
***
キース・エマーソンが3月10日、米カリフォルニア州の自宅で他界した。
享年71。
エマーソン・レイク・アンド・パーマーがバンドの
公式フェイスブックを通じて発表した声明は以下の通り。
「残念なことに、キース・エマーソンが昨晩、
ロサンゼルス・サンタモニカの自宅で亡くなったことを
お伝えしなければなりません。
71歳でした。
ご家族のプライヴァシーとご心痛にご配慮いただけますよう
お願い申し上げます」
キース・エマーソンは1970年、キング・クリムゾンのグレッグ・レイク、
そしてカール・パーマーと共にELPを結成。
彼らは同年8月のワイト島フェスティヴァルで華々しいデビューを飾り、
続けてデビュー・アルバム『エマーソン、レイク&パーマー』を発表した。
79年の活動休止までに7枚のアルバムをリリースし、
91年の再始動以降もアルバム2作を発表。
バンドは98年に再び活動休止を迎えたが、
結成40周年にあたる2010年には復活ライヴも行っていた。
また、ELPでの活動のほかにもソロ・アルバムや
映画音楽作品を数多く残し、4月には
「キース・エマーソン・バンド featuring マーク・ボニーラ」
として来日公演を予定していた。
◇
ELPのベースでもありヴォーカルのグレッグ・レイクは
以下のような追悼文を発表している。
「世界中にいるELPの友人、ファンのみなさんへ
この悲報に接し、僕は深い悲しみに包まれている。
みんなも知っている通り、キースと僕は長年に渡り、
人生の素晴らしいときを一緒に過ごしてきた。
彼の人生がこのような形で終わりを迎えるとは、
僕自身、そして彼を知る全ての人々にとって痛ましいことだ」
「キースの死は悲しく、痛みをともなうものではあるが、
僕はみんなにこればかりを記憶に留めておいて欲しくない。
僕がこの先ずっと、キース・エマーソンについて思い出すのは、
そのミュージシャン、作曲家としての素晴らしい才能と
エンターテイナーとしての生まれながらの素質と情熱だ。
音楽は彼の人生だった。
彼が困難に直面したとしても、僕は、
彼が作った音楽は永遠に生き続けると確信している」
ドラマーのカール・パーマーも、キースの死を悼んでいる。
「親友であり音楽的なブラザーでもあるキースが亡くなったと知り、
悲しみにたえません。
キースは優しい心の持ち主でした。
彼の音楽に対する愛やキーボード・プレイヤーとしての
パフォーマンスへの情熱はこれからもずっと
比類のないものであり続けることでしょう。
先駆者にして革新者であり、その音楽的な才能は、
ロックやクラシック、ジャズの世界にいる我々すべてを魅了しました」
「彼の温かい笑顔や、ユーモア・センスや、
人を惹きつけずにはおかないショウマンシップ、
音楽への献身を僕はずっと忘れません。
彼と出会い、共に音楽を作ることができたのは
とても幸運なことでした。
安らかに、キース」
◇
キース・エマーソン(71)が亡くなったことに関し、サンタモニカ警察は
彼が頭部を自ら銃で撃ったことにより亡くなったとし、自殺と断定した。
また、同居するカリフォルニアの住まいでエマーソンの遺体を発見した
ガールフレンドのマリ・カワグチが、イギリスのタブロイド紙、
デイリー・メールに対して語り、同キーボーディストが
自ら命を絶つことになった理由にもなり得る事情を打ち明けた。
「彼はここ何年も右手に問題を抱えていました。
2、3年前に悪い筋肉を取り除く手術を受けましたが、
右手の痛みと神経の問題は更に悪化したのです。
彼は日本でのコンサートを控えており、サポートのための
バックアップ・キーボード・プレイヤーを雇っていましたが、
それでもキースは心配していたのです。
彼はネット上の批判を全て読み、繊細な心の持ち主でした。
昨年、彼がコンサートで演奏すると人々は、
“彼にプレイを止めてもらいたい”
といったような趣旨のコメントを投稿したのです。
彼は十分にできないのではとの心配に苦悩し、
日本公演の後に引退する予定でした。
ファンを失望させたくなかったのです。
彼は完璧主義者で、パーフェクトなプレイが出来ないとの思いが
自分を憂うつにさせ、ビクビクし、不安にさせたのです」
***
ヤフーのニュースで第一報に接し、またか、まだ続くのか、と。
しかもまだ71歳。
第一報では「死因は明らかにされていない」とありましたが、
時間を追うごとに情報が上がってきて、死因が分かりました。
拳銃による自殺。
ショックでした。
昨年秋から訃報を多く上げてきていますが、
今回のショックはまったく別のものでした。
今回は、特にファンの方、申し訳ないと先に言っておきます。
キース・エマーソン、エマーソン・レイク&パーマー、
僕は今まであまり聴いてきていません。
弟の収集癖のおかげで正規盤はすべて家にCDがあるのですが、
聴き込んだといえるアルバムは、正直、ありません。
鳩の1枚目、タルカス、展覧会の絵、トリロジー、恐怖の頭脳改革、
これらは20代前半に買って聴き、今でもたまに取り出し聴いています。
ファンには不評といわれるLOVE BEACHも加えておきますか。
僕の悪癖(!?)、「このアルバムを好きになりたい」という思いが
そうさせていますが、特に鳩のは挑戦してきた回数が多いですね。
タルカスと頭脳改革もそこそこ以上に気に入ってはいます。
でも、愛聴盤といえるものはない。
だから、彼らの音楽について話せることは何もありません。
かえすがえすも申し訳ないのですが。
そのようなわけで、キース・エマーソンの訃報に接し、
記事にするのをためらいました。
でも、
少なくとも「好きになろう」と思っているミュージシャンだから、
記事にしてもいいのではないか、と、自分なりに思うに至りました。
上げないともやもやしたものが残りそうというのもあって。
僕がキース・エマーソンでいちばん好きであり、
思い入れが強い曲が、実はこれなのでした。
Touch & Go
Emerson Lake & Powell
(1986)
カール・パーマーがエイジアで活動していた1980年代、
故意か偶然か、同じ"P"ではじまるドラマー
コージー・パウエルを迎えて制作された唯一のアルバムから。
コージーは「神」でもあり、当時日本でも話題になりました。
この曲は当時まだあった朝日放送系の番組MTVで流れ、
そこで観て知った、というのがまず思い入れが強い部分。
貼り付けたYou-Tube映像には懐かしのMTVのロゴもあり、
夜中にテレビにかじりついていた当時を懐かしく思い出しました。
純粋に曲がいいですよね。
歌はもちろん、特にキーボードのイントロ。
体の中から勇気が湧いてくるような旋律が素晴らしい。
出た頃僕は浪人生だったけど、その後大学で東京に行き、
自分の気持ちが上昇機運にあったことと絡めて懐かしい。
個人的な思い出をもうひとつ。
僕は大学3年の頃、羽田空港でアルバイトをしていました。
週3回夜勤で、土曜は大学の授業の後で仕事、
日曜は帰って寝て起きてまた夜勤、
そして月曜は夜勤明けでそのまま大学へという日々でしたが、
ほんと、今考えるとよく体が持った、若かったんだなあと。
当時、空港では早朝、始発便が出る前に
パイロットの飛行訓練が行われていました。
滑走路に降りてきてギア(車輪)が着地した飛行機が、
そのまま再び離陸するという訓練でした。
その様子を見ていたところ、バイト先の人が
「タッチ&ゴーをやっているんだ」と説明してくれ、
もちろんその時、エマーソン・レイク&パウエルのこの曲が
頭の中で高らかに鳴り始めました。
"Touch & Go"とはそういう意味でもあったんだ、と。
だから僕は今でも、空港に行くとこの曲が頭をかすめます。
ついでにというか、これアルバムもなかなかよくて、
The Miracleはかなりいい曲だと思います。
まあ、そんな他愛のない話ですが、
僕は今でもこの曲が大好きであり、
好きであることについては負い目も何もありません。
ところで、肝心のこのCDが家庭内行方不明になっており、
代わりにその3人のライヴ盤を冒頭写真に使いました。
どこ行っちゃったんだろう・・・
もうひとつ、あまりにも他愛のない話。
NFLアリゾナ・カーディナルスの正QBはカーソン・パーマー。
わが家では、試合中継で彼が写ると
「エマーソン・レイク&カーソン・パーマーだ」と呼んでいます。
もちろん、どちらに対しても親しみを込めたつもりで。
さてこのまま終わるのも何なので、ここで鳩から1曲。
Lucky Man
Emerson, Lake & Palmer
(1970)
この曲は好きですよ、最初から。
これ、グレッグ・レイクが
リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンドに
参加した時にも歌っていました。
Lucky Man
Greg Lake - Ringo Starr & His All-Star Band
(2001)
キース・エマーソンからは離れてしまいました・・・
あと3曲ほど好きな曲を。
Love Beach
Emerson, Lake & Palmer
(1978)
彼らのみならずプログレの勢いが落ちてきた頃、
ELPもこんなことをやっていました、という例。
断っておきますが、僕は好きです、はい。
続いて
Are You Ready Eddie ?
Emerson, Lake & Palmer
(1971)
僕が初めて買ったELPのアルバムはTARKUS。
大学時代、キング・クリムゾンのあれと一緒に買いました。
「プログレ四天王」のうち、それまで聴いていたピンク・フロイドと
イエス以外のあとふたつ制覇しようと思ってのことでしたが、
その最後にこれが入っていて驚きました。
「プログレの人でも普通のロックンロールやるんだあ」、と。
偏見みたいなものがあったのでしょうね(笑)。
コーラスがなんだかユーモラスですよね。
クイーンのCrazy Little Thing Called Loveの
"Ready Freddie"というコーラスはこれを意識した?! なんて。
ついでにいえば、アイアン・メイデンのマスコットキャラクター
「エディ」を連想する曲でもあります。
そしてもう1曲。
Jerusalem
Emerson, Lake & Palmer
(1973)
このアルバムは最初、特殊デザインのCDを
中古で見つけて買ったのもちょっとした思い出。
自殺は決して肯定されるものではない。
でも、完璧主義というキース・エマーソンの話、
理解できる部分がないわけではない。
だけどやっぱり、生きてほしかったですね。
来日公演を控えていたというだけに。
もちろん僕は、これからELPを少しずつ聴いてゆきます。
安らかにお眠りください。
03


キース・エマーソンが亡くなりました。
今回は複数のネット上の記事をひとつにまとめて紹介します。
***
キース・エマーソンが3月10日、米カリフォルニア州の自宅で他界した。
享年71。
エマーソン・レイク・アンド・パーマーがバンドの
公式フェイスブックを通じて発表した声明は以下の通り。
「残念なことに、キース・エマーソンが昨晩、
ロサンゼルス・サンタモニカの自宅で亡くなったことを
お伝えしなければなりません。
71歳でした。
ご家族のプライヴァシーとご心痛にご配慮いただけますよう
お願い申し上げます」
キース・エマーソンは1970年、キング・クリムゾンのグレッグ・レイク、
そしてカール・パーマーと共にELPを結成。
彼らは同年8月のワイト島フェスティヴァルで華々しいデビューを飾り、
続けてデビュー・アルバム『エマーソン、レイク&パーマー』を発表した。
79年の活動休止までに7枚のアルバムをリリースし、
91年の再始動以降もアルバム2作を発表。
バンドは98年に再び活動休止を迎えたが、
結成40周年にあたる2010年には復活ライヴも行っていた。
また、ELPでの活動のほかにもソロ・アルバムや
映画音楽作品を数多く残し、4月には
「キース・エマーソン・バンド featuring マーク・ボニーラ」
として来日公演を予定していた。
◇
ELPのベースでもありヴォーカルのグレッグ・レイクは
以下のような追悼文を発表している。
「世界中にいるELPの友人、ファンのみなさんへ
この悲報に接し、僕は深い悲しみに包まれている。
みんなも知っている通り、キースと僕は長年に渡り、
人生の素晴らしいときを一緒に過ごしてきた。
彼の人生がこのような形で終わりを迎えるとは、
僕自身、そして彼を知る全ての人々にとって痛ましいことだ」
「キースの死は悲しく、痛みをともなうものではあるが、
僕はみんなにこればかりを記憶に留めておいて欲しくない。
僕がこの先ずっと、キース・エマーソンについて思い出すのは、
そのミュージシャン、作曲家としての素晴らしい才能と
エンターテイナーとしての生まれながらの素質と情熱だ。
音楽は彼の人生だった。
彼が困難に直面したとしても、僕は、
彼が作った音楽は永遠に生き続けると確信している」
ドラマーのカール・パーマーも、キースの死を悼んでいる。
「親友であり音楽的なブラザーでもあるキースが亡くなったと知り、
悲しみにたえません。
キースは優しい心の持ち主でした。
彼の音楽に対する愛やキーボード・プレイヤーとしての
パフォーマンスへの情熱はこれからもずっと
比類のないものであり続けることでしょう。
先駆者にして革新者であり、その音楽的な才能は、
ロックやクラシック、ジャズの世界にいる我々すべてを魅了しました」
「彼の温かい笑顔や、ユーモア・センスや、
人を惹きつけずにはおかないショウマンシップ、
音楽への献身を僕はずっと忘れません。
彼と出会い、共に音楽を作ることができたのは
とても幸運なことでした。
安らかに、キース」
◇
キース・エマーソン(71)が亡くなったことに関し、サンタモニカ警察は
彼が頭部を自ら銃で撃ったことにより亡くなったとし、自殺と断定した。
また、同居するカリフォルニアの住まいでエマーソンの遺体を発見した
ガールフレンドのマリ・カワグチが、イギリスのタブロイド紙、
デイリー・メールに対して語り、同キーボーディストが
自ら命を絶つことになった理由にもなり得る事情を打ち明けた。
「彼はここ何年も右手に問題を抱えていました。
2、3年前に悪い筋肉を取り除く手術を受けましたが、
右手の痛みと神経の問題は更に悪化したのです。
彼は日本でのコンサートを控えており、サポートのための
バックアップ・キーボード・プレイヤーを雇っていましたが、
それでもキースは心配していたのです。
彼はネット上の批判を全て読み、繊細な心の持ち主でした。
昨年、彼がコンサートで演奏すると人々は、
“彼にプレイを止めてもらいたい”
といったような趣旨のコメントを投稿したのです。
彼は十分にできないのではとの心配に苦悩し、
日本公演の後に引退する予定でした。
ファンを失望させたくなかったのです。
彼は完璧主義者で、パーフェクトなプレイが出来ないとの思いが
自分を憂うつにさせ、ビクビクし、不安にさせたのです」
***
ヤフーのニュースで第一報に接し、またか、まだ続くのか、と。
しかもまだ71歳。
第一報では「死因は明らかにされていない」とありましたが、
時間を追うごとに情報が上がってきて、死因が分かりました。
拳銃による自殺。
ショックでした。
昨年秋から訃報を多く上げてきていますが、
今回のショックはまったく別のものでした。
今回は、特にファンの方、申し訳ないと先に言っておきます。
キース・エマーソン、エマーソン・レイク&パーマー、
僕は今まであまり聴いてきていません。
弟の収集癖のおかげで正規盤はすべて家にCDがあるのですが、
聴き込んだといえるアルバムは、正直、ありません。
鳩の1枚目、タルカス、展覧会の絵、トリロジー、恐怖の頭脳改革、
これらは20代前半に買って聴き、今でもたまに取り出し聴いています。
ファンには不評といわれるLOVE BEACHも加えておきますか。
僕の悪癖(!?)、「このアルバムを好きになりたい」という思いが
そうさせていますが、特に鳩のは挑戦してきた回数が多いですね。
タルカスと頭脳改革もそこそこ以上に気に入ってはいます。
でも、愛聴盤といえるものはない。
だから、彼らの音楽について話せることは何もありません。
かえすがえすも申し訳ないのですが。
そのようなわけで、キース・エマーソンの訃報に接し、
記事にするのをためらいました。
でも、
少なくとも「好きになろう」と思っているミュージシャンだから、
記事にしてもいいのではないか、と、自分なりに思うに至りました。
上げないともやもやしたものが残りそうというのもあって。
僕がキース・エマーソンでいちばん好きであり、
思い入れが強い曲が、実はこれなのでした。
Touch & Go
Emerson Lake & Powell
(1986)
カール・パーマーがエイジアで活動していた1980年代、
故意か偶然か、同じ"P"ではじまるドラマー
コージー・パウエルを迎えて制作された唯一のアルバムから。
コージーは「神」でもあり、当時日本でも話題になりました。
この曲は当時まだあった朝日放送系の番組MTVで流れ、
そこで観て知った、というのがまず思い入れが強い部分。
貼り付けたYou-Tube映像には懐かしのMTVのロゴもあり、
夜中にテレビにかじりついていた当時を懐かしく思い出しました。
純粋に曲がいいですよね。
歌はもちろん、特にキーボードのイントロ。
体の中から勇気が湧いてくるような旋律が素晴らしい。
出た頃僕は浪人生だったけど、その後大学で東京に行き、
自分の気持ちが上昇機運にあったことと絡めて懐かしい。
個人的な思い出をもうひとつ。
僕は大学3年の頃、羽田空港でアルバイトをしていました。
週3回夜勤で、土曜は大学の授業の後で仕事、
日曜は帰って寝て起きてまた夜勤、
そして月曜は夜勤明けでそのまま大学へという日々でしたが、
ほんと、今考えるとよく体が持った、若かったんだなあと。
当時、空港では早朝、始発便が出る前に
パイロットの飛行訓練が行われていました。
滑走路に降りてきてギア(車輪)が着地した飛行機が、
そのまま再び離陸するという訓練でした。
その様子を見ていたところ、バイト先の人が
「タッチ&ゴーをやっているんだ」と説明してくれ、
もちろんその時、エマーソン・レイク&パウエルのこの曲が
頭の中で高らかに鳴り始めました。
"Touch & Go"とはそういう意味でもあったんだ、と。
だから僕は今でも、空港に行くとこの曲が頭をかすめます。
ついでにというか、これアルバムもなかなかよくて、
The Miracleはかなりいい曲だと思います。
まあ、そんな他愛のない話ですが、
僕は今でもこの曲が大好きであり、
好きであることについては負い目も何もありません。
ところで、肝心のこのCDが家庭内行方不明になっており、
代わりにその3人のライヴ盤を冒頭写真に使いました。
どこ行っちゃったんだろう・・・
もうひとつ、あまりにも他愛のない話。
NFLアリゾナ・カーディナルスの正QBはカーソン・パーマー。
わが家では、試合中継で彼が写ると
「エマーソン・レイク&カーソン・パーマーだ」と呼んでいます。
もちろん、どちらに対しても親しみを込めたつもりで。
さてこのまま終わるのも何なので、ここで鳩から1曲。
Lucky Man
Emerson, Lake & Palmer
(1970)
この曲は好きですよ、最初から。
これ、グレッグ・レイクが
リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンドに
参加した時にも歌っていました。
Lucky Man
Greg Lake - Ringo Starr & His All-Star Band
(2001)
キース・エマーソンからは離れてしまいました・・・
あと3曲ほど好きな曲を。
Love Beach
Emerson, Lake & Palmer
(1978)
彼らのみならずプログレの勢いが落ちてきた頃、
ELPもこんなことをやっていました、という例。
断っておきますが、僕は好きです、はい。
続いて
Are You Ready Eddie ?
Emerson, Lake & Palmer
(1971)
僕が初めて買ったELPのアルバムはTARKUS。
大学時代、キング・クリムゾンのあれと一緒に買いました。
「プログレ四天王」のうち、それまで聴いていたピンク・フロイドと
イエス以外のあとふたつ制覇しようと思ってのことでしたが、
その最後にこれが入っていて驚きました。
「プログレの人でも普通のロックンロールやるんだあ」、と。
偏見みたいなものがあったのでしょうね(笑)。
コーラスがなんだかユーモラスですよね。
クイーンのCrazy Little Thing Called Loveの
"Ready Freddie"というコーラスはこれを意識した?! なんて。
ついでにいえば、アイアン・メイデンのマスコットキャラクター
「エディ」を連想する曲でもあります。
そしてもう1曲。
Jerusalem
Emerson, Lake & Palmer
(1973)
このアルバムは最初、特殊デザインのCDを
中古で見つけて買ったのもちょっとした思い出。
自殺は決して肯定されるものではない。
でも、完璧主義というキース・エマーソンの話、
理解できる部分がないわけではない。
だけどやっぱり、生きてほしかったですね。
来日公演を控えていたというだけに。
もちろん僕は、これからELPを少しずつ聴いてゆきます。
安らかにお眠りください。
03

2016年03月09日
ありがとう、ジョージ・マーティン、そしてさようなら
01

ビートルズのプロデューサー、
サー・ジョージ・マーティンが亡くなりました。
享年90。
スポニチアネックスの記事を引用します。
***
「ザ・ビートルズ」の作品をほぼプロデュースしたことから
「5人目のビートルズ」と呼ばれた英音楽プロデューサーの
ジョージ・マーティンさんが亡くなった。
90歳。
9日、海外メディアが報じた。
ビートルズのドラマー、リンゴ・スター(75)はツイッターで
「ジョージ・マーティンに神のご加護を。あなたの愛に感謝します」
などと追悼。
故ジョン・レノンとオノ・ヨーコ(83)の息子、
ショーン・レノン(40)もツイッターで
「言葉がありません。安らかに眠ってください」
などと追悼メッセージを送った。
マーティンさんは1962年、ビートルズを見いだし、
96年、音楽界への貢献からナイトの称号を贈られた。
98年、ビートルズのトリビュート盤
「イン・マイ・ライフ」をプロデュースし、発表した。
***
正直、目がうるっときました。
最近はことあるごとに、いつまでもお元気でいてほしい、
と思っていました。
90歳、大往生ではあるけれど、やはりお別れは寂しいですね。
ビートルズのことは折に触れて話してきているので、
歴史のifの話を、今回だけはお許しください。
もしビートルズのプロデューサーがジョージ・マーティンではなければ、
ビートルズはRUBBER SOULの前にダメになっていたかもしれない。
バンドはだめにならなくても、やっぱり、
RUBBER SOULはあのようには作られなかったかもしれない。
RUBBER SOULが出なければ、ブライアン・ウィルソンが
影響を受けてPET SOUNDSを作ることもなかったかもしれない。
RUBBER SOULとPET SOUNDSがなければ、
ロックンロールは依然としてダンス音楽のままだったかもしれない。
ロックンロールがダンス音楽でしかないものであるならば、
音楽を聴くことを趣味とする人がもっと少なかったかもしれない。
そうであれば、ロックをはじめとしたポピュラー音楽が(邦楽含む)、
教科書に取り上げられるなどということもなかったかもしれない。
もちろん、ビートルズやジョージ・マーティンがいなくても、
他の誰かが代わりに成し遂げていた可能性はありますが、
そういう話をしたくなるほどの大きな存在だったのではないかと。
それ以前にビートルズはDeccaのオーディションに落ち、
EMIに拾われた。
もしDeccaに合格していれば、
ジョージ・マーティンと一緒に仕事することもなかった。
さらにいえば、リヴァプールという小さな町で、偶然にも
2人の才能ある若者が近所に住んでいた。
その町には彼らの才能に惚れ込んだ商才に長けた男、
ブライアン・エプスタインもいた。
ビートルズのことを考えると、偶然の素晴らしさを思います。
突き詰めてゆけば、人間が、生き物が生きているのも
偶然につぐ偶然が重なった「だけ」のことだから。
ジョージ・マーティンがいなかったら僕だっていないかもしれない。
それくらい大きな人であることを言いたかったのでした。
などと、音楽とは大きく離れてしまいましたが、
ビートルズがなぜ広く親しまれ愛されるようになったのか。
ジョージ・マーティンはおそらくビートルズにこう言ったのではないか。
「お前たち、黒人の真似はするな」
R&B、ブルーズ、ソウルなどを好きになるのは構わない。
でも、それを自分なりのものに昇華してゆきなさい。
もうひとつ、ジョージ・マーティンは、ビートルズの前は
クラシックの録音に携わっていて、楽譜も書ける人でしたが、
若者のあやふやな音楽のイメージを確かな音として
提示することができた、これが大きいのでしょうね。
ビートルズに関する逸話を2つほど。
Yesterdayをポールが最初にスタジオで聞かせた時、
ジョージ・マーティンはこう言ったそうです。
「この美しい歌にドラムもベースも要らない」
ポールのギターとストリングスだけのアレンジになりました。
She's Leaving Homeを最初に聴いたジョージ・マーティンは、
涙が止まらなかったという。
02

さて、話だけで終わるのはジョージ・マーティンにも申し訳ない。
プロデュースした作品で有名な曲を幾つか、ビートルズ以外で。
写真01の6枚組CDボックス、
PRODUCED BY GEORGE MARTIN
50 YEARS IN RECORDING
に収録されている曲を中心に紹介します。
☆
Goldfinger
Shirley Bassy
(1964)
「007ゴールドフィンガー」のテーマ曲としてあまりにも有名。
特にシャーリー・バッシーの歌い方、インパクトという点で
007のテーマ曲として最高でしょうね。
☆
From Russia With Love
Matt Monroe
(1963)
「007ロシアより愛をこめて」のテーマ曲、マット・モンロー。
こちらは王道エンターテインメント。
☆
Live And Let Die
Paul McCartney & Wings
(1973)
やっぱりこれは入れないと(笑)。
「007死ぬのは奴らだ」、ポール・マッカートニー&ウィングス。
この曲はビートルズ解散後初めてポールとマーティンが組んだ
として当時話題になりました。
そしてポールはこの曲を歌い続けています。
☆
How Do You Do It
Gerry & The Pacemakers
(1963)
ジェリー&ザ・ペースメイカーズのこの曲は元々、
ジョージ・マーティンがビートルズの2枚目のシングルとして
用意し録音までしたものの、やはりオリジナル曲で勝負したい
というビートルズの意気込みに負けてお蔵入り。
それを歌ったジェリー&ザ・ペースメイカーズは全英No.1に。
☆
Do You Want To Know A Secret
Billy J Kramer with The Dakotas
(1963)
これは逆にビートルズのオリジナルを
ビリー・J・クレイマーwithザ・ダコタズが歌ってヒットさせたもの。
☆
Marrakesh Express
Stan Getz
(1969)
スタン・ゲッツのこれもボックスセットに入ってました。
ええ、つまり、聴いたけど覚えていなかった・・・
1969年のアルバムだから、CS&Nのオリジナルが出て
すぐに出したわけですね。
今度このCD買って聴いてみよう。
☆
She's A Woman
Jeff Beck
(1975)
ジェフ・ベックのこれはジョージ・マーティンの仕事として有名な1枚。
箱には別の曲が入っているのですが、ここはやっぱりですね、
ビートルズ絡みということでこれにしました。
☆
Sister Golden Hair
America
(1975)
アメリカ2曲目のNo.1ヒット曲も手掛けていました。
これは確かアメリカが望んだものだったと記憶しています。
☆
The Highwayman
Jimmy Webb
(1977)
ジミー・ウェッブの僕が唯一持っているアルバムも
ジョージ・マーティンのプロデュースなのでした。
このアルバムEL MIRAGEはかなり気に入っています。
☆
Get Back
Billy Preston
(1978)
ビー・ジーズとピーター・フランプトンが主役の映画
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
のサントラから、おなじみビリー・プレストンのおなじみの曲。
☆
Mystery Train
UFO
(1980)
英国ハードロックバンドのUFOもプロデュースしています。
R&Bのクラシックとしてニール・ヤングのカヴァーでも知られた曲。
☆
Ebony & Ivory
Paul McCartney with Stevie Wonder
(1982)
ポール・マッカートニーとスティーヴィー・ワンダー。
やはりこれを入れさせてください。
僕がリアルタイムで初めて聴いたビートルズのメンバーの新曲。
ジョン・レノンの死を受け、ポールがジョージ・マーティンと再び
手を組んだとして当時話題になり、僕も期待しました。
今でもリアルタイムでいちばん好きなポールのアルバムです。
☆
In My Life
Sean Connery
(1998)
最後はショーン・コネリーの語り。
ちなみに、歌詞の字幕には
"Some are dead and some are living"
と出てきますが、".. leaving"です。
でも、今日は特にそのくだりに心が止まってしまいますね。
03

ジョージ・マーティンは札幌にも来たんですよね。
「芸術の森」が開基となった時。
僕は東京にいたので、弟から情報を聞いただけですが、
札幌にいれば近くに行きたかったと、今でも思っています。
ジョージ・マーティンはクラシックの録音に携わっていた。
僕は、それがどれかを調べてCDを買おうと思っていましたが、
間に合わなかった、でもこれから聴いてみます。
音楽を通して生きる楽しさを教えてくれた人
サー・ジョージ・マーティン
安らかにお眠りください。
04


ビートルズのプロデューサー、
サー・ジョージ・マーティンが亡くなりました。
享年90。
スポニチアネックスの記事を引用します。
***
「ザ・ビートルズ」の作品をほぼプロデュースしたことから
「5人目のビートルズ」と呼ばれた英音楽プロデューサーの
ジョージ・マーティンさんが亡くなった。
90歳。
9日、海外メディアが報じた。
ビートルズのドラマー、リンゴ・スター(75)はツイッターで
「ジョージ・マーティンに神のご加護を。あなたの愛に感謝します」
などと追悼。
故ジョン・レノンとオノ・ヨーコ(83)の息子、
ショーン・レノン(40)もツイッターで
「言葉がありません。安らかに眠ってください」
などと追悼メッセージを送った。
マーティンさんは1962年、ビートルズを見いだし、
96年、音楽界への貢献からナイトの称号を贈られた。
98年、ビートルズのトリビュート盤
「イン・マイ・ライフ」をプロデュースし、発表した。
***
正直、目がうるっときました。
最近はことあるごとに、いつまでもお元気でいてほしい、
と思っていました。
90歳、大往生ではあるけれど、やはりお別れは寂しいですね。
ビートルズのことは折に触れて話してきているので、
歴史のifの話を、今回だけはお許しください。
もしビートルズのプロデューサーがジョージ・マーティンではなければ、
ビートルズはRUBBER SOULの前にダメになっていたかもしれない。
バンドはだめにならなくても、やっぱり、
RUBBER SOULはあのようには作られなかったかもしれない。
RUBBER SOULが出なければ、ブライアン・ウィルソンが
影響を受けてPET SOUNDSを作ることもなかったかもしれない。
RUBBER SOULとPET SOUNDSがなければ、
ロックンロールは依然としてダンス音楽のままだったかもしれない。
ロックンロールがダンス音楽でしかないものであるならば、
音楽を聴くことを趣味とする人がもっと少なかったかもしれない。
そうであれば、ロックをはじめとしたポピュラー音楽が(邦楽含む)、
教科書に取り上げられるなどということもなかったかもしれない。
もちろん、ビートルズやジョージ・マーティンがいなくても、
他の誰かが代わりに成し遂げていた可能性はありますが、
そういう話をしたくなるほどの大きな存在だったのではないかと。
それ以前にビートルズはDeccaのオーディションに落ち、
EMIに拾われた。
もしDeccaに合格していれば、
ジョージ・マーティンと一緒に仕事することもなかった。
さらにいえば、リヴァプールという小さな町で、偶然にも
2人の才能ある若者が近所に住んでいた。
その町には彼らの才能に惚れ込んだ商才に長けた男、
ブライアン・エプスタインもいた。
ビートルズのことを考えると、偶然の素晴らしさを思います。
突き詰めてゆけば、人間が、生き物が生きているのも
偶然につぐ偶然が重なった「だけ」のことだから。
ジョージ・マーティンがいなかったら僕だっていないかもしれない。
それくらい大きな人であることを言いたかったのでした。
などと、音楽とは大きく離れてしまいましたが、
ビートルズがなぜ広く親しまれ愛されるようになったのか。
ジョージ・マーティンはおそらくビートルズにこう言ったのではないか。
「お前たち、黒人の真似はするな」
R&B、ブルーズ、ソウルなどを好きになるのは構わない。
でも、それを自分なりのものに昇華してゆきなさい。
もうひとつ、ジョージ・マーティンは、ビートルズの前は
クラシックの録音に携わっていて、楽譜も書ける人でしたが、
若者のあやふやな音楽のイメージを確かな音として
提示することができた、これが大きいのでしょうね。
ビートルズに関する逸話を2つほど。
Yesterdayをポールが最初にスタジオで聞かせた時、
ジョージ・マーティンはこう言ったそうです。
「この美しい歌にドラムもベースも要らない」
ポールのギターとストリングスだけのアレンジになりました。
She's Leaving Homeを最初に聴いたジョージ・マーティンは、
涙が止まらなかったという。
02

さて、話だけで終わるのはジョージ・マーティンにも申し訳ない。
プロデュースした作品で有名な曲を幾つか、ビートルズ以外で。
写真01の6枚組CDボックス、
PRODUCED BY GEORGE MARTIN
50 YEARS IN RECORDING
に収録されている曲を中心に紹介します。
☆
Goldfinger
Shirley Bassy
(1964)
「007ゴールドフィンガー」のテーマ曲としてあまりにも有名。
特にシャーリー・バッシーの歌い方、インパクトという点で
007のテーマ曲として最高でしょうね。
☆
From Russia With Love
Matt Monroe
(1963)
「007ロシアより愛をこめて」のテーマ曲、マット・モンロー。
こちらは王道エンターテインメント。
☆
Live And Let Die
Paul McCartney & Wings
(1973)
やっぱりこれは入れないと(笑)。
「007死ぬのは奴らだ」、ポール・マッカートニー&ウィングス。
この曲はビートルズ解散後初めてポールとマーティンが組んだ
として当時話題になりました。
そしてポールはこの曲を歌い続けています。
☆
How Do You Do It
Gerry & The Pacemakers
(1963)
ジェリー&ザ・ペースメイカーズのこの曲は元々、
ジョージ・マーティンがビートルズの2枚目のシングルとして
用意し録音までしたものの、やはりオリジナル曲で勝負したい
というビートルズの意気込みに負けてお蔵入り。
それを歌ったジェリー&ザ・ペースメイカーズは全英No.1に。
☆
Do You Want To Know A Secret
Billy J Kramer with The Dakotas
(1963)
これは逆にビートルズのオリジナルを
ビリー・J・クレイマーwithザ・ダコタズが歌ってヒットさせたもの。
☆
Marrakesh Express
Stan Getz
(1969)
スタン・ゲッツのこれもボックスセットに入ってました。
ええ、つまり、聴いたけど覚えていなかった・・・
1969年のアルバムだから、CS&Nのオリジナルが出て
すぐに出したわけですね。
今度このCD買って聴いてみよう。
☆
She's A Woman
Jeff Beck
(1975)
ジェフ・ベックのこれはジョージ・マーティンの仕事として有名な1枚。
箱には別の曲が入っているのですが、ここはやっぱりですね、
ビートルズ絡みということでこれにしました。
☆
Sister Golden Hair
America
(1975)
アメリカ2曲目のNo.1ヒット曲も手掛けていました。
これは確かアメリカが望んだものだったと記憶しています。
☆
The Highwayman
Jimmy Webb
(1977)
ジミー・ウェッブの僕が唯一持っているアルバムも
ジョージ・マーティンのプロデュースなのでした。
このアルバムEL MIRAGEはかなり気に入っています。
☆
Get Back
Billy Preston
(1978)
ビー・ジーズとピーター・フランプトンが主役の映画
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
のサントラから、おなじみビリー・プレストンのおなじみの曲。
☆
Mystery Train
UFO
(1980)
英国ハードロックバンドのUFOもプロデュースしています。
R&Bのクラシックとしてニール・ヤングのカヴァーでも知られた曲。
☆
Ebony & Ivory
Paul McCartney with Stevie Wonder
(1982)
ポール・マッカートニーとスティーヴィー・ワンダー。
やはりこれを入れさせてください。
僕がリアルタイムで初めて聴いたビートルズのメンバーの新曲。
ジョン・レノンの死を受け、ポールがジョージ・マーティンと再び
手を組んだとして当時話題になり、僕も期待しました。
今でもリアルタイムでいちばん好きなポールのアルバムです。
☆
In My Life
Sean Connery
(1998)
最後はショーン・コネリーの語り。
ちなみに、歌詞の字幕には
"Some are dead and some are living"
と出てきますが、".. leaving"です。
でも、今日は特にそのくだりに心が止まってしまいますね。
03

ジョージ・マーティンは札幌にも来たんですよね。
「芸術の森」が開基となった時。
僕は東京にいたので、弟から情報を聞いただけですが、
札幌にいれば近くに行きたかったと、今でも思っています。
ジョージ・マーティンはクラシックの録音に携わっていた。
僕は、それがどれかを調べてCDを買おうと思っていましたが、
間に合わなかった、でもこれから聴いてみます。
音楽を通して生きる楽しさを教えてくれた人
サー・ジョージ・マーティン
安らかにお眠りください。
04
