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2016年10月15日

ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」

01
ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」

一昨日のこと。
ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」を受賞したというニュースが
マスコミでもかなり大きく取り上げられました。
洋楽を愛しディラン大好きの僕の第一声はこうでした。
「ほんとか、やっとか」

ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」の候補に挙げられていることは、
10年近く前からこの季節になると風の噂のように流れていたので、
僕の「やっとか」はそれを受けての言葉です。

ファンとして嬉しい、これが正直なところ。

しかし、ネットでこの話題を見ると「初めて知った」
「驚いた」「知らなかった」という意見が「意外と」多かった。

僕は、この話題を人々がどう思い考えているのかに興味を持ち、
2時間近くネットの書き込みを読んでいました。

今日はそこから僕が考えたことのまとめです。

ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」を受賞したことについて、
ネット上では「賛否両論」があったわけですが、
それらを書き出してみます。

「賛」の意見
・ボブ・ディランの歌詞は「文学的」で「文学賞」にふさわしい
・文字で表現されたものだから歌詞も文学であって
 (受賞以前に)選考対象になったのは当然
・小説だけではない「文学」の可能性と広がりを示した
・歌詞を書く人や詩人、俳人などにも道が開けた


「否」の意見
・歌手が「文学賞」を受賞するのはおかしい
・ノーベル賞も「音楽」「映像」など新たに賞を設けるべきだ
・「平和賞」の方がいいのではないか
・ノーベル委員会の「人気取り」、或いは権威が地に堕ちた。

といったところに集約されていました。

読んでいて思ったこと。
「ボブ・ディランが」ノーベル文学賞受賞にふさわしいか、
という切り口で話している人はほとんどいなかった。
小説家ではない人が受賞したことがむしろ話題の中心でした。

そりゃそうだよ、と思いますね。
とりもなおさず、ボブ・ディランが日本ではあまり
聴かれていないことの証左なのだとあらためて思いました。

断っておきますが、僕だってボブ・ディランは大好きだけど
「よく」は知りません。
アルバムは一応すべてCD持っているけれど、
すべてを聴き込んでそらで曲が分かるわけではない。
分かるのはアルバムせいぜい10枚くらいのもので、
ろくに聴いていないアルバムも何枚かある。
もちろん歌詞をすべて覚えているなんてめっそうもない、
というくらいの中途半端なファンですが、それでもディランは
やっぱり大好きだから、敢えてかいています、念のため。

「平和賞」の方がいいのでは、という意見が結構あったのが、
いろんな意味で面白かった(可笑しいという意味も含めて)。
主に「風に吹かれて」「時代は変わる」といった
ボブ・ディラン初期の「プロテストソング」=「反戦歌」に対して
言っているものでしょうけれど、それだけで平和賞というのも
どうかなあとは思いました。
それならImagineを書いたジョン・レノンだって、と思うけれど、
ノーベル賞は生きている人だけが対象なんですよね。
昔、ノーベル文学賞選考委員だったという人のインタビュー記事を
読みましたが、その人曰く、日本の作家安部公房は、最終選考に
残っていたけれど急逝してしまって受賞できなかったそうで、
僕も幾分残念に思ったものでした(安部公房密かに好きなので)。

別のラジオ番組のコメンテーターの言葉も紹介。
その人は話しぶりによれば僕と同い年くらいの人らしいのですが、
ボブ・ディランについて聞かれてこう答えていました。
「もちろん何曲か聴いて知っていることは知っているけれど、
僕より上の世代だからあまり聴いてはこなかった」

ボブ・ディランは今でも現役ですよ。
この人を「上の世代」と言わしめたのは
ボブ・ディランといえば「プロテストソング」であり、
その時代で終わった人だという概念なのでしょう。
やはり聴かれていないということですね。
多分、音楽をあまり聴かない人の中には、
ボブ・ディランってまだやってるの? という人もいるでしょう。

ボブ・ディランは来日公演が満席になりますが(小会場ですが)、
僕はネットではなくリアルでボブ・ディランを聴いているという人、
今までの人生でひとりしか会ったことがありません。
その人は絶対音感があって若い頃に演奏活動をしていた女性で、
ローリング・ストーンズやジョン・レノンと同じようにディランも聴いた、
という人です。

萩原健太さんの本『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』によれば、
ボブ・ディランは「プロテストソング」を「やめた」んです。
しかもかなり早いうちに。
1965年に出た名盤HIGHWAY 61 REVISITEDそしてそこに
収められた名曲Like A Rolling Stone、ディランの代表曲ですが、
実はこの曲はもう「プロテストソング」ではないのだという。
だからものの3年くらいで「プロテストソング」をやめたということ。
この曲はメッセージ性があまりにも大きいので、それまでの流れで
「プロテストソング」だと思っていた僕はその本ではっとさせられました。
「メッセージソング」ではあるけれど、「反戦歌」ではない。
あくまでも個人のことを歌っているのは歌詞を見れば分かります。

もちろん「メッセージソング」としての重たさは他の人の比ではない。
そこがボブ・ディランの音楽でしょう。
ボブ・ディランは「プロテストソング」をやめても、いややめてむしろ
「文学的」な歌詞の曲を多く書いて世に送り出してきました。
名曲だって多い。
例えばForever Young、I Believe In Youのように
心温まる曲だってちゃんとあるし。


02
ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」

写真の本は僕が大学生の頃に買った洋書。
BOB DYLAN LYRICS 1962-1985
古い本ですが、ディランが描いたイラストもあって
昔からずっと傍らにある本です。


話は「文学賞」に戻ります。

僕は文学のセンスがありません。
それは僕が書く文章を読んでいただければお分かりかと。
「ブンガクテキ」ではないですよね。
余韻というか、余剰というか、そういうものがない。
読む方ではそういうことを確かに感じるのですが、書けない。

最近(といってもう2年も前のことか!)、僕は俳句を始めましたが、
最初のうちは俳句には文学的センスは必要ないと、
気軽な気持ちで詠み始めました。
でも、進めていくうちに、やっぱり文学的センスがないよりは
あった方がいいということに気づいて一時袋小路に迷い込みました。
今はしかしもう吹っ切れて、最初の頃の気持ちで詠んでいます。

つまり、俳句も「文学」なのだと思います。
もっと長い和歌や短歌が文学であるのは言うまでもない。
和歌は日本文学を支えてきたものですからね。
丸谷才一さん曰く、昔の人は和歌を「歌うように読んでいた」そうで、
そうなると「和歌」と「歌詞」は同質のものと言えるのではないか。

だから僕は、ボブ・ディランが「歌詞」の部分において
ノーベル文学賞を取ることには何の違和感もありません。

その上で、では「文学的」というのはどういうものか。
「心のささくれ」とでもいうか、読んでいて、読み終わって
「ぬめっとした」感覚が残る、そんな文章ではないかと思います。
読んですっと腑に落ちるのは「文学的」ではない、と。

ボブ・ディランの歌詞を僕は「文学的」と感じます。
理解できないという部分も込みで。
61の最後を飾る10分以上の大作Desolation Rowなんて、
最初に聴いて、ほんとうに小説のように感じられました。
小説では文章で表現している心象描写の部分を
音楽で補うのことにより短く表現できているのでは、と。

ポール・マッカートニーの歌詞を僕は「文学的」とは思わないかな。
ポールの場合は多くの人が感じていることをみんなが漠然と
心に抱く言葉を使うことで歌詞に普遍性があるのが特徴であり、
ポールが作るポップで歌いやすい旋律の曲を活かすには、
分かりにくい表現はマイナスになる、と僕は考えています。
ポールの歌詞は、BLOGの文字でもいいし会話でもいい、
何かちょっと気の利いたことを言ったり聞いたりする楽しさと同じで、
実は普通の人が日常的に話している中に楽しみがある。
というところだと思います。

ジョン・レノンの歌詞はポールよりは「文学的」と感じる、かな。
まあ「私小説」的ですけどね、ポールよりは文学にいそしんでいたし。
ジョンの場合はポールと逆で、あくまでも自分が思うところだけを
そのまま言っているはずなのに言葉になぜか普遍性があるという、
きわめて稀な人なのだと思います。


ノーベル文学賞の話題で、なぜ「今」なのかという意見もありました。
でも、ディランが音楽を通して歌詞を発表することで、
言葉で表現することの可能性を広げたのは間違いない。


ボブ・ディランの歌詞が「文学的」であると考えさせられる
もうひとつの理由があります。
ボブ・ディランは音楽についてこのように語っています。
「音楽はすべて焼き直しでまったく新しいものなどない。
自分は歌いたい歌詞に合うものを引っ張り出してきているだけだ」
つまり、ディランは最初から音楽にはある程度見切りをつけている。
文章があくまでも中心なのですね。
確かにボブ・ディランの曲は曲として見れば単純ですね。
ブルーズ形式のものも多いし、コード進行に一捻り加えている
なんて曲はあまりないですからね。
しかし、それでもこれだけのことを表現できるというのが、
ボブ・ディランの偉大なところなのでしょう。
まあ、だから音楽がつまらないという人もいるのでしょうけど。

などなど長々と書きましたが、久し振りに
ネットの書き込みを読んで面白かった。
そんなこともこの記事を書く気になった部分ですね。


さて最後は、ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」を受賞したと聞いて
最初に頭に浮かんだディランの曲を行きましょう。




Gotta Serve Somebody
Bob Dylan

グラミー授賞式のようですね。
ほんとはスタジオアルバムヴァージョンを
貼り付けたかったのですが、なかったのでした。

それにしてもなんでだろう、これが最初に頭に浮かんだのは。
この曲は歌詞は簡単な方ですね。
もっと話したいのですが、例えばジョン・レノンがこれを聴いて
何を言ったかなど、でももう長いのでまたの機会に。


とまあ結局、壮大なる能書きでこの記事は終わります(笑)。

03
ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」










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Posted by guitarbird at 21:51 │音楽雑想
この記事へのコメント
ギタバさん、こんばんは。

 落ち葉踏むディランの声ぞかくあらん  樹翔

ボブのざらついた歌声が聴こえる発句、おおきにです(・ё・)v

そしてノーベル文学賞の授賞おれは素直にうれしいなぁ。
米国の音楽家をひとり選べといわれれば迷わず
ディランといえるのやけどある意味村上春樹より
先にぶんがく賞を授賞したことが痛快やねぇ。

戦争の親玉ノーベルが創設した賞の授賞式に75歳の
ディランさんがどんな顔して出る(出ないかも)
のかも楽しみやねぇ。

 嫌いではなし好きいえぬ二人で落ち葉踏む  作者不明
Posted by ぽちわかや at 2016年10月16日 00:15
ギタバさん先ほどの作者不明の都々逸(?_?)
はうろ覚えなんですが

 嫌いではなし好きと言えぬふたりで踏む落葉

みたいなまぁ不倫の一句?(・ω・^)やなぁ・・・
Posted by ぽちわかや at 2016年10月16日 00:31
そうですね。反戦歌は、ベトナム戦争終了時に終わってましたね。
逆に個人の生き方、普遍的な哲学的なものにディランはいち早く移っていったのかもですね。
フォークの神様と言われてますが?との問いに、いえ人間です。と答えてますし、受賞後のコンサートでも淡々と歌っただけと言うのも、ディランらしいですね。
ノーベル賞の方が、ディランに寄り添った気がします。
ぽちわかやさんが書いてるように、ディランは受賞式に出ないかもですが、さもありなん!です。
ローリングストーン、風に吹かれてと自然体で人生を送ってる者に、今更レッテルとか、賞金、名誉なんて必要ないでしょうから。

やっぱり、ディランの吹くブルーズハーモニカが私は好きだな。
今度、ガンズver. [天国への扉]を歌いますか。
ザ・バンドなら、「I Shall be Released」
ですね。
何故か、本人のカラオケは歌った事がないのでした(笑) 
ベスト盤CDがなかなか手に入らないとか。

本人より回りが騒がしいようですね。
Posted by matsu at 2016年10月16日 01:51
ぽちわかやさん、こんにちわ
俳句ですがありがとうございます。
これからますます「ディランの声」が大きくなる季節ですね(笑)。

ディランのノーベル文学賞受賞はそう、素直に嬉しいですよね。
しかも音楽以外の畑の人から認められたというのが逆に
音楽、というか歌の力を証明したようなものでもあるし。

村上春樹はどうなのでしょうね。
ディランだって10年くらい候補と言われ続けていたので、
来年以降も候補にはなるでしょうね。

授賞式は蝶ネクタイにカンカン帽で出て欲しいです(笑)。
授賞式にでないのがディランらしいという意見もありましたが、
意外とミーハーな人らしいので出るのでは、とも思います。

そして作者不明の句をありがとうございます。
読んでユーリズミックスのHere Comes The Rain Again
の歌詞を思い出しました。
Posted by guitarbirdguitarbird at 2016年10月16日 11:28
matsuさん、こんにちわ
ディランの場合は実はベトナム戦争が泥沼化するはるか前に
反戦歌をやめているんですよね。
ある意味リアリストで、歌くらいでは変わらないほどアメリカが
はまり込んでしまったことに気づいたのかもしれないですね。
人間観察は時代も場所も超えて普遍性がありますからね。
そして私としてもそういう歌を作ってくれてありがたいです。
多分ずっと反戦歌を歌っていればここまでポピュラーに
ならなかっただろうし、ノーベル賞もあり得なかったわけで、
そうなると人の人生、行いって興味深いですよね。

ディランの授賞式について。
私は逆に、名誉もお金もレッテルも必要ないからこそ、
純粋に興味本位で出たいと思うのでは、とも思います。
人生一度だし、誰もができる経験ではないから、
人を観察するのが好きなディランがその機会をみすみす
逃すだろうかというところは引っかかります。
最近聞いたディランの面白い逸話で、リヴァプールに行った際に
ビートルズの足跡を巡るバスツアーに一般人として
参加していたのだそうで、いかにも人間臭くて好きです。

ディランはカラオケに本人のが少ないのは、デビュー当時も
曲はいいけど声が、というのがあってPPMやバーズなどに歌わせ
次々とヒットしたというのを引きずっているのでしょうかね。
Posted by guitarbirdguitarbird at 2016年10月16日 11:35
こんにちは。まずはボブ・ディランにおめでとうですね。私は若い頃からよく聴いていました。と言っても歌詞の意味は全くわかっていませんでしたけどね。今でも何曲か、ウォークマンに入っています。ついでに『学生街の喫茶店』も入っていました。
Posted by 多摩NTの住人 at 2016年10月16日 16:30
多摩NTの住人さん、こんばんわ
ボブ・ディランやはりよく聴いておられたのですね。
ガロの曲もやはりセットで思い出しますよね。
ディランの音楽はこれからも聴かれ続けていくでしょうね。
私もまたCD出して聴いています。
Posted by guitarbirdguitarbird at 2016年10月16日 23:27

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ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」